連繋経絡気脈発現涅槃世界


 
今まで関わってきたさまざまな事象が次々と眼前に集結し連繋し、気付かなかったそれらの関連性に改めて気付くことがある。
いや、正確には「気付かせられる」と言ふべきだな。
宗教的な主軸を持てば表象は分かり易いが、それでは余りに広汎に有象無象を付着させて仕舞ふため、それなりの用心が必要だ。
人が現象を呼ぶのか現象が人を呼ぶのかはよくわからないが、関係性の認識は人間によって行はれるものだから、人間の情緒が深く関はってゐることだけは確かだらう。
今回の高野山往きには、実は18年越しの念願が込められてゐたのだが、其の流れの延長線上に訪問した京都の神泉苑とは空海の存在が介在してゐる。高野山で改めて受戒を授かったのも、此のやうな目に見えない経絡を再確認するために他ならないし、日本に居ても猶、チベットと自分との結縁を保持し続けたいてう潜在的な願望の現れでもある。
極めて個人的で、極めてささやかな願望だ。
一方、宇治で「光源氏」なるお抹茶を買って帰れば源氏香の番組が放送されてゐるし、今夜は祇園祭関連で青蓮院の青不動尊公開と矢張り神泉苑の話題。
 
即ち、伏流水の感得なのだね、肝心なことは。
 
南無大師遍照金剛空海上人も地理風水も、チベットカイラスも、天文原理も聖地の構造も、信仰遺跡も蘋果式雪豹式電脳コイルも、拈華微笑も雪月花も何もかも、実は毛細血管のやうな無数の水脈で繋がってゐるのだ。
 
でも、こんなにいろいろなものが繋がって仕舞って、此の先大丈夫なのでせうか?
愈々、我が人生の精算が本格的に開始されたのかも・・・