涸渇


 
枯れ果てた山上の小さな池
蜻蛉たちの姿も今は無く
鳥さへも見向きもしない
山上の枯れ果てた池に
もはや用は無い
池はただの窪地と化して
草木と枯れ葉と土砂に埋もれて行くのだらう
やがて山上の小さな窪地は灌木に覆はれ
再び鳥たちが訪れることだらう
そして木々の枝葉に降った雨は
窪地の底に新たな池を作り出すことだらう
枯れ果てた山上の小さな池は
今はただ一人静かに
秋の深まりゆくさまを見つめてゐる
 

 
 
 
『「かわいそう」と魚を食べられない子供が増加…「それは動物愛護とは違う」と諭す教育も大切』 愛媛新聞

 食卓に上がったお魚の目がかわいそうで、食べられない子どもが増えているという。「これは恐ろしいことです」と、青木淳横浜国立大学名誉教授は嘆く。

 食習慣を大まかに形成するのは幼少期からの経験だ。経験の歪曲(わいきょく)と欠如は、食への偏見、無知を生む。その結果が人の命さえ奪うことだってある。青木氏は講演で、ある青年の例を引いた。

 まじめで従順な幼少時代。内向的な性格だが、学校では成績優秀。中産階級の家庭で不自由なく育った。

 その青年がある日、命について考えた。動物には命がある。自分はこれまで、動物の命を食べ、奪ってきた。なんて醜い人間なんだ。

 彼は肉を食べなくなった。それはそれでよし。食を考える大切な行為。彼は、魚と野菜中心の食生活を始めた。

 その後、また気付いた。魚にも命があることに。ああ、自分はひどいことをしていたんだ。以降、彼は魚も一切、口にしなくなった。

 菜食主義者になった青年。悲劇は、その先にあった。

 ついに彼は、最終的な「結論」に達してしまう。植物にも命がある。がくぜんとする青年。自分はどれほどの命を奪ってきたのか。

 引きこもり、一切の食物を拒否。両親が説得しても、頑として摂食しない。

 そしてついに…。精神的に不安定になった彼は、両親の命を奪ってしまう。

 実際の事件だそうだ。抱え込んでしまった命の意味、絶食までの苦悩。少しずつ歯車が狂っていった。

 次はある小学校の話。教師がニワトリをひなから飼いはじめた。児童とともに懸命に世話し、親鳥になったらみんなで肉を食べましょう。

 命を学習する試みだ。しかし父母からの異議で、中止されたという。残酷だから。

 わたしたち人間は哺(ほ)乳(にゅう)類。養分摂取が不可欠だ。養分とは他の命にほかならない。

 肉は店頭に並ぶ。切り身になった魚。でも、そこに生の命はない。分業時代になり、直接命を奪わなくてもタンパク質が入手できる。

 いま、生活から「生き死に」の体験が消えつつある。庭にニワトリはいない。昆虫採集をする子どもも減った。命を考える機会の減少。そんな複合要素が、先の事件を生んだとはいえないだろうか。

 動物愛護週間。愛犬や愛鳥の精神は大事にしたい。同時に、わたしたちの命を維持してくれるのも彼らの仲間。

 魚の目がかわいそうと思う子どもの気持ち。でもそれは動物愛護とは違うんだよ。優しく諭す教育も、大切だ。

 命をいただく行為だから「いただきます」。命あっての命。その意味を、家族みんなで考えたい。
 
 http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017200909242428.html

 

生と死の幻想

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