電光石火式浄土参詣穢土往来絵図


  
  

  
  

  
  

  
   

  
  
   
世田谷美術館に於ける特別展「平泉」の内容は予想以上の素晴らしさであった。
広告の重点は中尊寺金色堂西北壇の諸仏が前面に押し出されたものであったため、ともすれば金堂の実物大復元や中尊寺宝物が中心の展示会かしらむと思ってゐたのだが、黒石寺や天台寺の諸仏と邂逅出来やうとは。とりわけ、岩手天台寺の神像とも仏像とも区別未分、分類不可の鉈彫りの諸仏は、嘗てみちのく周遊時にも拝観出来なかったものであり、感激した。
  
思ふに、四天王などはかなり早くから踏みつけた邪鬼の容姿と共にプロトタイプが各地で忠実に再現されてゐたやうで、鎌倉期の巨大化を除きさほど驚嘆すべき像に出会ったことが無い。しかし、今回同時に拝観できた岩手は立花毘沙門堂(万福寺)の二天像(持国天増長天)は衣の裳裾を曲線的に大きく靡かせて跳舞してゐるやうな姿勢で、実に音楽的で個性的で、風土に由来した躍動感に満ち新鮮であった。
   
それにしても平泉の地に再現されてゐた浄土世界、宗教的世界観を地上の風水を巧みに用ひほぼ完全に再現した藤原氏の執念は並みのものではない。いくら栄華を極めても、いくら地方地域の覇権を掌握しても、浄土世界の再現に費やされた精神的な信念は政治的な野望とは別物のやうな気がする。
   
中尊寺建立供養願文に記された文章は格調高く無常観に満ちて感動的だ。金色堂が浄土のある西方を背にして東面することは、即身仏として須弥壇内部に埋葬された三代の古屍が朝日を受けることによって再生を果たす為の装置であるとも解釈できやうが、同時に東方の眼下に広がる平泉の街の創造主として見守り俯瞰することを意味してゐたのだらう。
それは、前九年・後三年の役てう空前の戦乱を経て勝ち取った刹那の平和を永遠のものにしたいと言ふ切実な願ひが背景に存在するが故の欣求浄土であり、其の具現化への飽くなき追求の日々の結晶であったのだらう。
  
金鶏山を須弥山(景山)に見立てて建立された毛越寺は、まさに浄土曼荼羅の中心を再現した風水寺院であり、平泉の鎮護であった。伝承に因れば、清衡が富士山をかたどって一夜にして山を造り、黄金の鶏の雌雄一対を鋳造して山頂に埋納したとされるが、考古学的調査によって渥美壺(袈裟襷文、球形の胴部、激しい格子文の印架、口縁の不規則な欠損は意図的なものかな?)を外容器に用ひた経塚遺構が存在することが判明した。
  
とまれ、世界遺産を目指した平泉であったが、中世絵図に描かれたほぼそのままの地理景観が残された骨寺村荘園遺跡の風景は素晴らしいものだが、どちらかと言ふと物理的な重量感に満ちた建築物や其の廃墟を主流とする世界遺産の選考には漏れてしまったやうだが、日本が先行して独自に「歴史的景観遺産」に指定して守って行けばよい。其の場合肝心なのは、コンサルタント会社主導の近代的な土木建築的工事主導の保護方法ではなく、地域の住民や人民が里山的に関はる半自然的な管理方法を探っていくのも一案だらう。