勇気ある悲しみと情緒の襞

赤目柏の新芽

このところバッハを差し置き、シューマンの曲ばかり聴いてゐる。
ピアノ曲交響曲も協奏曲も、とりわけ一つの曲を集中的にてうわけではなく、iTunesでランダムにかけてみたり、とりわけブレンデルの弾く「Kreisleriana」(クライスレリアーナ)は秀逸で、個性を競ひ合ふやうな8曲それぞれが、心の襞の奥深いところにまで浸透してきて、感傷を誘ふ。
ピアノ曲に限れば、此の他にも「謝肉祭」「幻想小曲集」「交響的練習曲」「Kinderszenen」(子供の情景)などが有名だが、シューマンの幻想の産物である「ダヴィッド同盟舞曲集」も奇妙な魅力を持ってゐる。
此の曲集の冒頭に書かれたドイツの格言、
  
   
 いつの世にも 喜びは悲しみと共にある
   
 喜びにはひかへめであれ
   
 悲しみには勇気をもつて備へよ
   
   
が具体的に何を指してゐるのかは謎だが、「謝肉祭」の終曲とも密接に関連する内容で、様々な空想的故事に対応する情緒の揺らぎをメロディーとリズムに置き換えた興味深い曲群だ。
彼の文学的素養の深さと鋭い感性はよく知られたものだが、かなり振幅のある躁鬱病に加へ、晩年には梅毒に起因する精神障害の影響も色濃く影を落としてゐる。
とりわけ、ドレスデン移住後の精神状態は危機的状況であったやうだが、名曲である「ピアノ協奏曲」も此の時期の作品だ。曲の方々に迸る感情の高揚や音階の極端な跳躍、そして直後に出現する深い嘆きや内省など、めまぐるしく変化する精神の表裏が音符となって書き記された好例だ。
興味深いのは、このやうな精神的な危機をシューマン自らが自覚してゐたことで、危機回避のために選んだのがバッハの作品研究であった。その成果(影響?)を得て、オルガンやピアノのために数々のフーガを作曲し、交響曲第2番も作曲。6年後には音楽監督に招かれたことをきっかけにデュッセルドルフに移住し、明るい風土の影響で精神的には平穏を取り戻したやうだ。「交響曲第3番」(通称「ライン」)が此の時期の作品と聞けば、納得できるやうな気もする。
シューマンの作品には、シューベルトに見られる「長調の憂愁」などは微塵も無く、感傷と憂鬱と郷愁が渾然一体となったストレートな息の長いメロディーが重厚な音圧で鳴り響く。勿論、有名な「トロイメライ」のやうに文字通り夢見るやうな儚き憂愁を湛へた小曲も多くあるが、大曲の第2主題に典型的な情緒溢れる世界も魅力的だ。
シューマンの宇宙は短編小説の集合体であり、統合され秩序だった創世神話こそ存在しないものの、冬の満天の星空の如くどの一部分を手にとっても愛ほしく、泪を誘ふ。
   
   

   

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1)