記憶の環

渦巻く

このところの因果応報で、屋外工作活動のまにまに激しいデジャ・ヴュに苛まれ、そんな記憶とも実体験とも、はたまた勘違ひとも知れぬなにものかを招待所に持ち帰り、着色された湯で満たされた狭い浴槽にどっぷりと身を沈めつつ、反芻するやうに、時にはゆるりゆるりと五色の糸を手元に手繰り寄せるやうに今の自分なりに検証して行くと、果たしてそれらの多くは過去に確実に自分の仕掛けておいた罠であったりカラクリであったりして、時には其の余りにも巧みな結構や仕組みにこの歳になって驚いてゐる自分が確実に今此処に居るワケで、そんな時間をも取り込んだ実に手の込んだ経過を経た上での結末や顛末に、言葉を失ふこともしばしばにて、これらの有象無象をば如何にしつることどもぞや。
       
確かに、記憶には何かしら渦巻く構造がしばしばあって、物理的に足を掬はれることもあれば神経回路の電流を逆流されることもある。
自らの記憶の渦巻く流れに流されてゐたのでは自己矛盾の極みではないかしらむと怪しまれるものだが、意外に人間様の脳裏では自己を正当化させるためにさまざまな無意識が同時に作用してゐるやうで、隣り合ふシナプスの担ふ事象が数十年のギャップを孕むこともあるし、時間の流れが逆転してゐる場合も多々あるのだ。
         

記憶の円環は意外なほど硬質だ