考察編

シラサギ、アマサギ、虫を啄む

昨夜は久しぶりに少し熱気が冷め、蚊帳の中でも寝苦しさは無かった。
相変はらず天気は不安定なままで、炉穴のことを考へるには相応しい様相だ。
でもね、これでもいろいろのあれこれをいくつか同時に、例へば吉胡貝塚の報告書用追加資料のことだの、青津前田遺跡の表採資料の追加のことだの、これら両者の図版レイアウトの事だの何だの、雁合遺跡の出土土器のことだの、考へてゐるのだよ。
今天は好久不見的に工作所で拓本など取って仕舞ったのだが、半年以上仕舞っておいたたんぽからは油気が抜けて仕舞ってゐて、なかなか墨のムラが落ち着かず、利用出来さうな拓本は明天以降にお預けだ。
(-_-)
                  
さて、昨天から持ち越し課題の炉穴考察を少し。

                  

               

浜松市中通遺跡説明会資料からの引用(財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所の現地説明会資料)
               
考察「煙道付炉穴について」     
1,用途:中通遺跡で発見された煙道付炉穴は、単独で存在するものがある一方で、ほとんどのものは同じような場所に何度も作り直しています。天井が崩落したために作り直したのでしょう。縄文人たちにとって、石や木などの道具を使ってトンネルを掘るという行為は、大変な労力と危険をともなうものであったことと思われます。それでも、何度も作り直しているという事実は、それだけ煙道付炉穴が必要なものであったからです。煙道付炉穴を使って行われる行為が「生きる」ことに直結する行為だったからにほかなりません。当時「生きる」ために必要だったと考えられるもの、それは「食」に関することだと思われます。煙道付炉穴は少なくとも食べ物を調理するための施設だったと考えます。開口部ほぼ床面に、焼けた面のそろった石が円形に並んでいた例や、煙道部付近に焼けた石が多く詰まっている例が多いことから、それらの石を使用しながらの調理の可能性もあります。煙道付炉穴の用途として現在もっとも有力なのは燻製施設説ですが、中通遺跡の出土石器の多くは植物性食料を加工するための石皿や台石などが中心であることから、植物性食料の調理場の可能性もあるのではないかとも考えています。
                  
(以下、2,煙道付炉穴の分布、3,中通遺跡における定住の可能性、4,中通遺跡の煙道付炉穴存続期間についてはまた別の機会に取り上げることにしやう)
              

              
【読解】
此の説明文では、炉穴の掘削が縄文人にとってたいへん危険で難儀なことであったと表現されてゐるが、果たしてさうだらうか。
地面を大きく掘り窪めた上で建築される竪穴住居や大小の柱穴、各種土坑の掘削が日常的に行はれてゐたであらうから、全長1m前後のトンネルを掘削するくらい、わけないはずだ。事実、先日の炉穴掘削実験では、若くて活きのイイ男子4名様が打製石斧を装着した掘り棒と木の掘り棒、土を掻き出す用のアワビの貝殻などを用ひて1時間以内に煙道付炉穴の掘削を完了してゐる。(大小2基の炉穴を2時間以内に掘削終了)
また、危険と言っても、人間が通るやうなトンネルを掘削してゐるワケではなく、例へ掘削中に天井が崩落したとしても、掘り棒かせいぜい腕半分が土に埋もれるほどであらうから、危険度なども知れてゐるワケだ。
このやうな作業を「大変な労力と危険をともなうものであったことと思われます。」と考へるのはまさに現代人の感覚であって、縄文早期人にとっては難無く行ふことができたはずだ。
次に炉穴の用途だが、所謂東海型(平面プランが細長い二等辺三角形を呈する)の場合、煙道部に尖底土器を設置することが可能であることは確認できた。台石またはそれらに類する石がしばしば焚き口(開口部)床面周辺に見られることなどから、それらを使って何らかの調理行為が行はれてゐた可能性は否定できないだらう。しかし、炉辺と言ふか、狭い炉そのものに石皿を設置して食材の調理加工を行っていたとは考へ難ひ。炉穴はあくまでも調理場であって、物理的にいっても所謂仕込みに適した空間ではないと思はれるのだ。
また、加熱調理の対象となる食材についてであるが、石皿の存在は根菜類を中心とした植物性食料の存在を大いに示唆するが、潰したり擂ったりしただけでは加熱し難ひだらうから、土器を用ひた加熱調理と言ふ流れを想像すべきかもしれない。また、此の炉穴が燻製施設を兼ねてゐたとすれば、根菜類ばかりではなく、動物の肉も加工し調理してゐたと考へるのがふつうであらう。
所謂九州型の炉穴の場合(平面形状は隅丸長方形で、炉穴床面は傾斜しないものもある)、煙道部と推定される穴が比較的大きいため、尖底土器を設置することはなかなか難しい。燻製施設であるとすれば、炉穴全体または煙道部周辺を覆ふやうな簡易な施設が使はれてゐたことは想像に難くない。雁合遺跡で発見した炉穴の場合、焚き口脇にごく小さな柱穴様のピットを伴ったものがあった。また煙道部側にも、矢張り小さなピットが1つ検出されたが、これらは小屋掛けの存在を示唆してゐるのかだうか、今暫くの検討を要する。
そもそも煙道部そのものが、焚き口や天井部周辺と同程度には被熱していない場合が多いやうだが、雁合遺跡では煙道部周辺が平面的に広く赤化した例もある。これは明らかに煙道部周辺地上部でも火が焚かれてゐたことを表してゐるのだが、其の場合同時に焚き口でも火が焚かれてゐたのか、又は炉穴の多様な用途の一環として被熱したのかは不明だ。
(-_-)
                    
そして何よりも、これほどの炉穴と集石炉が集中して発見されてゐるにも関はらず、何故周辺から住居址が発見されてゐないのか?
                 

                 
※次に、老朋友中島氏の考察を引用。
               
かの炉穴は、薫製づくりと家事用とに説が別れているようですね。
家事用の説明のなかには「屋外に炉をつくるのは定住民に非ず」といった、まったく民族事例を知らない断言もあって呆れましたがまあ、住居祉がちかくに見あたらない場合は薫製つくりのほうが妥当でしょうね。
サバンナでは朝は寒いので屋内で煮炊きをしますが、昼間夕方は暑いので屋外で煮炊きをします。これは四季にも重ねて考えられるかもしれません。
たとえば、屋外しかない場合は夏のキャンプ地で、屋内しかない場合冬場のそれ。両方ある場合は、長期滞在地…など。
もちろん住居の改善によっては夏に屋内でも暑くならないでしょうからいちがいには言えないのですが。
ちなみに現代の囲炉裏は、屋内炉に相当しますが、その作り方は穴を掘って石礫を周囲に積み上げ、そこに土を打ちつけて乾燥させそこに灰を入れます。
この、乾燥してから灰をいれるという手順が炉穴実験では行われていませんね。とにかく炉穴内部を打ち固める作業は必須かとおもわれます。
また、2つの穴に空気の流れを作り出すのは、やはり常識的な発想では、最初に焚き口の側に蓋をしてフイゴで熱流を作りつつ内部を高温にし、そのときの熱流によって垂直穴が高温になりますから、そこからは垂直穴のほうに空気を吸い上げる力が生まれます。
そうなったら、しきりに激しくフイゴ風を送らなくても低温部である焚き口側から空気は入っていくようになるはずです。
垂直穴のうえには薫製小屋があったとおもわれます。小屋といっても柱を立てるようなものではなく、三本の組み木で三角錐の簡素なものです。なので柱穴はみつかりません。なぜ三角錐にするのかといいますと、風に強い形だからでしょう。また、その形のほうが薫製には適する内部構造をしているやも。
                

                   
我輩の不徳の致すところから、中島氏には遺構図面も画像もお見せしておらず、我輩の形容口伝による状況説明だけでの考察であるので心苦しいが、さすが並々ならぬ考察力である。体験と取材と常識に基づいた此の中島氏の御意見は、大いに傾聴すべきである。
今回は1点のみ、雁合遺跡に見る限り、炉穴内壁は掘り棒の痕跡がそのまま残った状態で赤色硬化しており、特に炉穴内部が打ち固められたやうな痕跡は見当たらず。
しかし、焚き口周辺で発見される石は全て積んでも到底焚き口全体を塞ぐほどの量ではなく、さりとて焼き物の窯のやうに焚き口を土を以て塞いだやうな痕跡も無く、相変はらず此の謎は保留。
しかし、煙出しの燻製施設としての利用は大いに考へられることで、中島氏ご指摘の如く、三角錐の覆ひを用ひればより効果的だらう。勿論、まう少し大きな空間を確保する場合もあったらうが、木の枝を多角形に組み、獣の皮を張り巡らせば簡単に作ることが出来たはずだ。更に、鞴の役割を果たす火吹き棒は勿論使用して居たはずだが、炉穴の焚き火を扇ぐための団扇なども、小枝と革などを使へば容易に作ることが出来ただらう。
炉穴の細かな構造の相違、使用法に関する考察はまた次回。
(-。-;)
                  
                      

            

焼成実験炉穴1号:焚き口に溜まった熾火
                

雁合遺跡の炉穴:塞ぐには余りにも大きな焚き口