八朔闇月夜

神島遙か

今天、葉月新月、八朔二百十日
                       
久々の青空だが、高く突き抜けるやうな爽やかさは無く、どことなく蒸し暑く、日中は襟足が汗ばむほど。
いつのまにか日の出も遅くなってきたし、午後6時には黄昏を迎へるやうになった。破天荒の二百十日を迎へる前に、天候は大いに荒れ果てたこともあって、いつになく穏やかな葉月の入りと感ぜらるる。
さう言へば昨夜など、新月前の闇に沈む庭に出てみると、一面に蟋蟀の声。風の音にはまんだ本格的には驚かされてはおらんが、いくら日中蝉がうるさくても、野の虫の声だけは確実に秋の世界を創出しはじめてゐる。
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文化・文明の発達過程に於いて、神話が必要欠くべからざるものであった時期は、世界中どの地域でも見られたことだ。
いや、人々そのものが、個々独立した個としての意識を持たず、朦朧とした変性意識下で神話世界に生きてゐた時代(時期)は、世界中どの民族にも見られるのだ。
神託が日常の全てを決定し、カミ(のやうな存在)の声が直接人々の脳裏に鳴り響いてゐた時代があったはずだ。後に其れは人格として変容し、特定の人間を通じてのみ、人々に語られるやうになる。聖人や呪術者、預言者の発生だ。
神話そのものが日常であった時、人々はごく普通に土器の表面にさまざまな物語を記したであらうし、家の造りや道具のかたちや天文の秩序や日々の暮らしは全て同じ時限の、同じ平面上に位置してゐたことだらう。
さて、問題は我々だ。
縄文人達が此のやうに表現した何物かを、現代人達がどこまで読み解くことができるのかてうこと、それがいちばんの問題なのだ。
(-。-;)
                   
                        
                        
 
無花果、頂戴しました。好吃的!