伝絡

縄目の営み

雨、猶止まず。
朝から庭には水溢れ、時折近く遠く雷鳴轟き、梅雨と颱風が一緒に来て、強風だけを省略したやうな按配。
これほどの水が天から落ち、いったい何処へ行って仕舞ふのかは定かではないが、もしこれら雨粒に分解されてゐる水の原形が、集合体としての意識を持ってゐたとするならば、此の一粒一粒にも意識の欠片が残ってゐるのだらうかとか、もし雨が、天におはす神々の意思に因ってもたらされたものであったとすれば、我々地上を這ふ人間様はいったいどのやうにして天上の意図を汲み取ったらよいのだらうかとか、前日ふと考へたやうに、此の雨が大陸上空にて人為的に制御された大自然の不均衡に起因するものではないのだらうかとか改めて考へてみたり、はたまた昨夜の大雨で雨受けから流出して仕舞ったメダカたちの行く末を案じてみたり、時折高まる雨音に紛れてチャイコフスキーの大序曲やワーグナーの「ニーベルングの指輪」を最大音量でじゃんじゃんかけてみたり、大雨には大雨なりの過ごし方が用意されてゐるのもまた、確かなこと。
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久々に、吉胡貝塚出土の縄文土器を手に取る。
此は、清野氏の大撹乱を免れた、吉胡貝塚の中でももっとも古い段階に形成された貝層の表面に打ち捨てられてゐたものだ。
残存部分は全体の7分の1ほどか、貝塚表面に投げ捨てられたのか、はたまた一部は踏みつぶされたやうに割れてゐたが、それらは三千年以上前に起こったことだ。
後期後葉の独特の器形。胴部に括れのある深鉢器形なのだけど、口縁部には4カ所に膨らみが造り出され、其の部分が波頭を為す波状口縁土器で、真上から見ると角の丸っこい四角形に見ゑるやうな、関西風の造り。精製土器と呼ぶには多少雑な仕上げで、内外面ともに器表の研磨は、お世辞にも目潰しが十分であるとは言へない。
屈曲部から上の口縁部周辺には、地文として縄文が付けられてゐる。拡大鏡で観察すると、縄文原体の植物質のしなやかなくねりと、立体曲面の上を指先で転がされる回転の様子が生々しく想像できる。
口縁部のほぼ一面に、多少隙間があったりはするものの縄文地文が付けられた後、棒のやうなもので浅く幅広の沈線が付けられてゐる。其の沈線は緩やかに弧を描き、口縁部近くの器面をしなやかに這うやうに、残存してゐる部分では並行に二条が確認できる。
器表は何で磨かれたのかな。幅1センチ弱の単位で、外側は斜めに、内側はほぼ水平に連続して磨かれた痕跡がはっきりと残ってゐるが、磨きの中央が僅かに凹む様子を見ると、竹篦のやうな棒状のものではなく、蛤や礫のやうな曲面を持った原体が想像される。
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 回転運動を幻視せよ!
                   
                   
どのやうにして土器の文様が伝へられてきたのかてうことを想像することは、楽しゐものだ。
実際、誰かが何処かで始めた文様や器形を、隣ムラで使ってゐる様子を見て、真似をして作ってみたのだらうか。 それとも、見たこともないかたちをした土器を携へたまれびとが、ムラにやってきたのだらうか。
土器様式の伝播は、人間の移動を伴ふ場合も、口伝で文様(物語り?)だけがやってくる場合もあったらうが、それがいったいどのやうにしてかなり広汎な地域全体に伝播して広まって行くのかは、はっきり言って謎だ。一般に、土器を作るのは主に女性であるとされるのだが、さうなると近隣のムラとの婚姻関係が、土器ばかりではなく、石器や器物什器の伝播も伴ってゐたらうし、目に見へない物語りや神話の伝播も伴ってゐたであらうことは容易に推察できる。
また、此の世界の多くの現象に共通の特徴かも知れないが、先づ初めに完成形が出現し、徐々に省略され、簡略化され、そして型式の系統を離れ霧散して行く。これは、土器の形式や文様に於いても同じことが言へる。更に、初めに最も遠方に伝播したものごとは、其の爆心地が消滅した後も、遠方ほど長く古式を保つ。(超新星爆発の痕跡原理?)
極東や極西の島嶼に、大陸では当の昔に滅び去った古代の風俗習慣が良く保存されてゐたり、文物そのものが保存されてゐることがしばしば再発見される(正倉院の原理)。
更には、古代に於いて、「島のケルト」が寧ろ最も忠実な耶蘇教徒となり、頽廃した大陸に教義を復活させ人々を啓蒙せむと布教に訪れることなどは、古式を保ってゐたからこそ出来るワザであらうし、「島の倭人」が仏教の古式を能く修得してゐることとも共通することなのかもしれない。
そして、極大が極小に通じるとすれば、半島先端の鄙の地に居住せる我輩はいったいどのやうな古式を保ち続けてゐるのだらうか。
(-。-)?