集石回路

百合の花も焼け落ちさうな・・・

涼しげな空気は昨夜の入口まで。
今朝は早くから南風が大いに入り、たいそう蒸し暑い。嗚呼、雨恋し・・・
基本的に列島の天気は不安定で、夏と秋がせめぎ合ってゐるのだらうが、肝心の雨雲は内陸の方々に分散し、此の偉大な半島には寄り付かうとはしない。
天気予報は寒冷前線日本海側から南下して来るので、突風や集中豪雨に備へよなどと吹聴してゐたが、期待した雨雲の中心は隣県側に逸れ、半島を掠めるやうに通過していって仕舞った。
雨、そりゃーやっと降りましたよ、数分間。でも、これほどの量なら降らない方がマシであって、まさに焼け石に水。再び晴れ上がる頃には降る前より湿度が倍増し、恐ろしい蒸し暑さに。さすがの電脳も熱暴走起こす寸前。何とかほどよくざんぶと降っていただけないものでせうか。
(-。-;)
                        
                 
またまた集石土坑の話。
そもそも名称からして問題がありさうだが、被熱した石(礫)を大量に含むことから其の用途を炉であると仮定し、「集石炉」と呼称することもやぶさかではない。
また、他の遺跡報告を見ても、「集石遺構」や「礫群」と呼ぶ例もあり、炉とは認定し難き遺構も包摂されて仕舞ふことから、単に「集石」と表現するに留める研究者も居る。
しかし、「集石」と記せば其の意味こそ、単に「石(礫)が集積乃至蝟集された状態」そのものを表現するに過ぎないことから、此処では敢へて「集石土坑」と呼ぶことにする。
雁合遺跡で検出した集石土坑を分類してみると、
                    

  1. 深さ30cmほどの掘り込みの中に、比較的散漫に被熱した大小様々な礫がみられるもの。(土坑の平面プランは不整形) → 此の例は「集石土坑」てう概念からは除外すべきかもしれない。
  2. 深さ50cm以上の掘り込みの中に、拳大かそれ以下の大きさの被熱礫がぎっしり充填された状況のもの。多くが土坑範囲に礫が盛り上がるやうに堆積してゐる。(土坑の平面プランは円形) 土坑の底部は基盤層である固結シルトの岩盤をも刳り抜いて掘削されており、並々ならぬ執念を感じる。猶、此の類型には土坑の断面プランが擂り鉢状に上に開いたものと、其の一部が袋状(庇状)にハングするものがみられる。(平面径約40センチ、深さ20センチほどの小型のものもある) また、充填された被熱礫の上層に、長さ30センチほどの板状(石皿状)が3枚入れられたものもあり、集石土坑の使用方法に一石を投じてゐる。
  3. 土坑の底面に20〜30センチ前後の石(礫)を敷き詰め(12個)、それより上を拳大の被熱礫で充填するもの。敷石上面が被熱し、その隙間には灰がみられ、上半の被熱礫は土坑上に盛り上げられて集められてゐる。

              
ところで其の用途は?
少なくとも近畿地方から東海地方西部にかけての地方では、集石土坑が営まれるのは早期のしかも押型文土器期が中心だ。最盛期は神宮寺式段階で、三重県での例は炉穴よりも上層から検出されてゐる。
雁合遺跡でも、炉穴(煙道付き)を切って集石土坑が掘削されるてう事例が2件発見されており、炉穴と集石土坑が同時に存在した可能性もあるが、やはり大まかな流れは炉穴→集石土坑となるのではないか、てう予感はまんだそのまま。
(未完)
              
                        
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さて、偉人は明天より数日間、再び大江戸方面へ。
中心的目的は「ユーロ=アジア世界芸術文明交流研究会」セミナーの第3回で、今回は本命鶴岡真弓女史の講演。会場は前回同様、珈琲屋バッハにて。
短期間の空白で再び中島氏とも再会できるし、そもそも宿泊も御世話いただくワケだし、また今回は高山からの参加者も居られることだし、楽しみも多い。
更には、うまくいけば言叢社などのブログ立ち上げに協力できるかもしれず、こちらはまた別口のお楽しみにて。
(-_-)
                      
                        
                           

ぎっしり詰まった被熱礫。此の密度を見よ!
                         

被熱礫や埋土などの内容物を全て取り出したあとの様子。
地山である固結シルトの岩盤まで掘削されており、底部も被熱のため赤化してゐる様子がよくわかる。
並々ならぬ執念を感じさせる遺構だが、此の情熱は二分心の旺盛であったことを示すものか。