早期解決?

ぎらぎらと照り付ける

このところ雁合遺跡出土の押型文土器や撚糸文土器を中心に、当地方における縄文早期の土器文様の変遷をぼんやりと眺めてゐるのだが、それはそれは変化に富み、興味深い。
そもそも草創期と早期の境界線は曖昧なままだが、三重県を中心にした近畿地方では大鼻・大川〜神宮寺式への押型文土器の流れが把握されており、また関東地方では多縄文・表裏縄文期を経て、撚糸文土器系主体の井草・大丸〜夏島・稲荷台式に至る流れはほぼ確定してゐる。
両地方を繋ぐ此の東海道地方、とりわけ東海地方西部の様相は、基本的には押型文土器文化圏なのだが、押型文に撚糸文土器が共伴しながら、東西の影響下に揺り動かされ続け、高山寺式〜茅山下層式・八ッ崎式の揺籃を経て、粕畑式以後は完全に独自性を確立させ、条痕文土器の範疇を脱しつつも突帯や隆帯を自在に変化させ、アカホヤ火山灰の降下を以て一応の収束をみる。
この間、自然環境も劇的に変化し続け、特に草創期から早期を通じて継続した海面上昇(縄文海進)は、現在の伊勢湾・三河湾をも造り出す原因となった。
もっとも最近、もっとも寒冷であった時期は地質学的にはヴュルム氷期最盛期とされる今から1万8千年前のことであるが、当時の海水面はマイナス140mであり、伊勢湾・三河湾はそれぞれ古木曽三川と古矢作・豊川の渓谷に過ぎなかった。
此の頃をピークに、気温と海面は上昇を開始し、約8千年前にはマイナス30m前後で一時期停滞したやうだが、以後は急激に上昇し、前期前半頃には現在よりプラス3m前後に達したことが知られてゐる。
興味深いことに、当地方でしきりに炉穴が掘削され、屋外で集石炉が営まれるのが此の海面上昇の一時停滞期である。これらの遺構が集中的に、主として屋外で営まれた背景には、自然環境の大きな変化が作用してゐたに違ひ無い。
炉穴が単純に竈であったと断言は出来ないが、地山が赤化するほどの燃料を投じて火を焚くわけだから、さまざまな用途を兼ねてゐたに違ひない。炉穴のトンネル構造と当時の尖底土器は照応し、やはり食料を煮炊きする竈としての用途が中心だったことだらう。また、焚き口から前庭部に広がった灰原にかけては、土器焼成も行はれてゐた可能性が有る。更には、従来から南九州地域を中心に唱へられてゐたやうに、食肉などの燻製施設として使はれてゐた可能性も否定できない。
また、大きな流れで遺構の変遷を把握すれば炉穴から集石土坑への大まかな変化を窺ふことが可能であるが、炉穴と同時に集石土坑(集石炉)が営まれてゐた可能性も高い。其の場合、同様に火を用ひる施設における形態の相違は即ち、調理法の相違を意味することになる。
深さが60センチにも達する擂り鉢状の集石土坑では、最終的に300キロ以上の礫が集められ、盛り上げられたまま放擲されて土に埋もれてゐた。激しい被熱を物語る無数の礫や壁面の状態から想像すれば、現在でも南方の島々で行はれてゐる石蒸し焼き調理法の施設と解釈することも出来る。其の場合、調理対象は根菜類や大まかに解体され骨の付いたままの獣の肉であらうが、当時の気候からみて現在南方で使用されるやうな芭蕉の葉のやうな大振りの植物は無かったであらうから、葉の付いたままの灌木の小枝が大量に用ひられたことだらう。
(未完)
               
                           
                      

此の累々礫々たる状況を見よ!(全て被熱してゐる)
                   

巧みに掘削された早期の炉穴は、古代・中世の窯と比べても何ら遜色のない構造である。
                      

人々がこんな奇妙な形状の土器を使ってゐた時代のこと・・・