残暑回顧

薄紅色の雲の波

何も教へられてこなかった。
先の戦争のこと、殆ど知らない。
祖父が死んだ後、残された何冊かのアルバムを見たときの衝撃は忘れられない。道端に横たはる屍体の横を行進する兵隊たちや、砲撃で崩れた城壁に掲げられた日章旗。尊大な表情をした大将達の肖像写真や、支那姑娘のブロマイド・・・
祖父は衛生兵だったので、所謂一般歩兵とは違ひ武器を携帯することはなかった。医者ではなく薬剤師であったため、前線へのモルヒネの搬送を中心に、包帯・ガーゼ・油紙ばかりか、手術道具や注射器、それらに関係した薬剤の管理をしてゐたやうだ。
駐屯地は天津の租界から、のちに青島に移管されたやうで、満洲国当時の地図だの絵葉書だのも大量に発見された。それらの資料を手がかりに、のちに我輩は満洲国時代の建築巡礼を行ふことになるのだが、天津時代のアルバムに残されてゐた租界の病院が当時そのままに残ってゐて、図書館として使はれてゐることを発見し、アングルそのままで写真を撮る自分自身に対し、不思議な感興を抱いたものだ。
祖父が我々家族に対し、戦争のことをいっさい語らなかった理由は知らない。それが余りにも辛く凄惨な経験であったが故か、自ら科した守秘義務のためか、はたまたそれ以外の理由があったのかも、今となってはまったくわからない。
63年が長いのか短いのか、よくわからない。戦争について、何を学ぶべきかもよくわからない。
ただ、63年前の此の夏の日も、暑くて長い一日だったに違ひない。
祖父の残した3冊のアルバムは、今我輩の手元にある。