月に吠ゑるもの

シデコブシ開花!

如月十五夜。風もなく冷たさも無い夜だけど、朧月夜と呼ぶには、未だ早い?
絹のヴェールに包まれた満月が、庭の木蓮を青白く照らしだしてゐる。
              

                  


詩の表現の目的は單に情調のための情調を表現することではない。幻覺のための幻覺を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣傳演繹することのためでもない。詩の本來の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。
詩とは感情の神經を掴んだものである。生きて働く心理學である。
すべてのよい敍情詩には、理窟や言葉で説明することの出釆ない一種の一感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては氣韻とか氣稟とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶醉的氣分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての價値のすくないものであつて、言はば香味を缺いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。
詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。
私の詩の讀者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感觸してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雜した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心傳心である。そのリズムを無言で感知することの出來る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。
『どういふわけでうれしい?』といふ質問に對して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に對しては何人もたやすくその心理を説明することはできない。
思ふに人間の感情といふものは、極めて單純であつて、同時に極めて複雜したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音樂と詩があるばかりである。
私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
あの病氣にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
『どういうわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我我にとつては只々不可思義千萬のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも眞實な事實なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫まられて……この苦しい實感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病氣について特種の智識をもたなかつた場合には彼に對してどんな慘酷な惡戲が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戰慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出來ないであらう。
けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出來ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。
狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
人間は一人一人にちがつた肉體と、ちがつた神經とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこぴは我のよろこびではない。
人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤獨である。
原始以來、神は幾億萬人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して一人とは造りはしなかつた。人はだれでも單位で生れて、永久に單位で死ななければならない。
とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の單位ではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、實際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に發見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に發見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤獨ではない。
私のこの肉體とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦點に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。
詩は一瞬間に於ける靈智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流體の如きものに觸れて始めてリズムを發見する。この電流體は詩人にとつては奇蹟である。詩は豫期して作らるべき者ではない。
以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある靈妙な宇宙の聖靈と人間の叡智との交靈作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。
詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、實は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。
私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臟の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤獨者との寂しいなぐさめである。
詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。
過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦燥と無爲と惱める心肉との不吉な惡夢であつた。
月に吠ゑる犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠ゑるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠ゑをする。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。

                          萩原朔太郎
                  

                      


           
達頼尊者 ~ 珍貴法語 ~
         
良知
告訴我們,
人的一生很短暫,
所以應趁著我們
在這個世上的短暫過程裏,作一些對自己和對別人有用的事情.
             
身為一個人,除非是在某種心理機能上有遲緩的現象,
否則我們的潛力都是一樣的.人類的大腦很奇妙,我們的力量和未來都根源於此,但願大家都能多句善加利用.如果人那神奇的精神力量被用壞了,就會招致災難性的後果.
            
我相信
這個地球上有感覺的生物裏,人類算是最發達的了.
人不只是有能力
讓自己活得快樂,
也能多句助別人.
我們有一種
天生的創造力,
對這點
有所覺悟非常重要.
             
矛盾的是,
我們不能多句光對自己有用,
卻對別人一點用處也沒有.
無論我們願不願意,
我們彼此都是有關的,所以只成就一己的幸福,是根本沒有辯法想像的事情.那些只管自己的人,到頭來一定會嘗到苦果;那些一心為別人的人,在對自己好卻渾然不覺.就算我們決定自掃門前雪,也要自私的聰明一點:要幇助別人!
               
一般來説,我們沒有辯法分辨什麼是基本..什麼是次要.我們把生命都花在四處追逐一些轉眼即逝的樂趣上,然後永遠不會滿足.我們會想盡辯法要快樂,卻不會去問在這過程中是不是有人會因此而受苦;我們會不惜任何代價,只為了累積,或維護所擁有的那些既不能長久,也不是真正幸福泉源的東西.
             
我們的精神裏,住著憤怒.忌護和其他各種負面的情緒,卻不知道這些情緒和喜悦,以及内心的平和,其實是不能相容的.

人類特有的聰明才智,
我們只是拿來謀略,
來損人利己;到最後,
不但沒有辯法脱離苦海,甚至還毫無理性地
認為一切都是別人的錯.
              
(-_-)
             
             

             
大家 太辛苦了!