怪我または遅刻の功名と高名の木登りまたは山登りの関係性について

雪雲の飛来到来

ほぼ終日、溢れる陽光と灰色の雪雲と風花の繰り返し。
雪雲は常に西北の彼方より飛来する。絹のきめ細やかさをもった綿毛のやうなもやもやっとした半透明の水煙が、灰色雲の下底にまとはりつくやうに繰り返しやってくる。
強風に運ばれてやってくる雪雲の壁だが、雲の規模が大きいと風の気配が消滅する瞬間が有って、刹那にしんしんと降る雪に因って創り出される非日常的な風景にしばし見入って仕舞ふ。
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気が付けば今天は星期天の日曜日で、少し溜めてゐた食器類や洗濯物を片付けたり、雪のまにまに庭の片隅の伐採木を積み上げてみたりしてゐるうちに、忽ち昼近くになった。石神観音の例大祭には午前中に出かけるつもりだったが、到着したのは結局午後1時頃。既に後片付けも終はりつつあり、人気もまばらで物寂しい感じ。日頃は無人観音堂ばかり見てゐる為、まばらな人出は返って寂しさを誘ふてう奇妙な現象。これもまた、人の世の道理と言ふことなのだらう。
あてどもなく「くわんのんたすけたまへ」と参詣し、ついでに石神の奥の谷を散策。谷頭を堰き止めて造成したものと思はれる小さな溜め池跡地?の奥は奇妙な平場が数段造成されてゐて、耕作の放棄された跡地のやうでもなく、謎だ。集落を抜ける前に、背後にある5mほどの台地に上る。村の神明社に詣で、周辺の畑地に広がる貝殻の散布を見て歩く。此処はかの大本貝塚と谷を夾んで対峙する位置にあるが、やはり弥生土器や中世の貝塚が重層してゐるらしいと聞いてゐた。過去に数度訪れてゐたが、破砕された貝殻の他は、まったく時代の判別がつかない小さな土器片を数片拾っただけだった。
今回も特に目に付くものも特に無い様子だったので帰らうかしらむと車に戻ると、農道によって切り通しになった温室脇の土手に比較的密度の濃い貝殻が目に付いた。いつもは草に覆はれて見へなかったのだらうが、よく見ると貝殻に混じっていくつかの土器片が見へた。いずれも風化著しく、薄くて脆いものだったが、そのなかに羽状縄文のものを確認するに至り、俄に此の貝塚が前期の所産である可能性が高まった。此の台地の裾には、中期前半土器の型式名祖である北屋敷貝塚が存在するが、背後の台地上には前期の貝塚があったのだ。しかし、すぐ近くでは須恵器の大型破片も確認できることから、県に登録された遺跡地図なども確認した上、正式なプロットは後日とすべし。これこそくわんのん参詣の効能なのかしらむ?!
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其ノ後、小雪舞ふ衣笠山山頂へ、二度目の参詣。
前回留意した磐座状の岩塊内郭に降り積もったウバメガシなどの落ち葉や腐葉土を除去し、なにものかの痕跡を探る。しかし、樹木の根が意外に強固に石を抱き込んでおり、持参した剪定バサミや手ガリではなかなか埒があかない。岩の僅かな隙間に詰まった赤土に到達すると、釉薬を施した新しさうな陶器片を発見。よく見れば明治時代あたりの酒瓶の破片であり、昔のヒトも此の山頂まで来て酒盛りをしたのであらうよ。
結局予定してゐた掘削探査は不十分のお粗末で終はったが、改めて山頂稜線を往来すると方々に巨岩や岩陰が存在し、このなかのいくつかは必ずや過去に信仰の対象となってゐたに相違ないの勘を深める。
うねるウバメガシに幻惑され、平衡感覚をもしばしば消失しつつも、夕日に炙り出された林の坂道を下る。時折、風花の欠片がはらはらと、ウバメガシの細かな葉やタブの枝先を通り抜けて足下や首筋にはらりと落ちてくる。寒さも今が底たるを、改めて知るもまたをかし。
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雪雲の去りしのちの展望