鳥瞰式踏査3

清浄な空気が横溢する滝の沢

立春大吉、お山快晴。
昨夜から三度目の覇拿里荘来訪を果たした老朋友WD氏と、地元の友人NKGM君を伴って、今天は滝頭不動の滝からの入山。此の滝を訪れるのは二度目だが、前回は12年も前。しかも秋の日の黄昏時で、昼猶暗き幽谷の登山道をひんやりとした冷気(霊気?)や、得体の知れぬもののけの気配に怯へ、滝の袂に至っただけで直ちに帰ってきてしまつた。其ノ後、衣笠山裾は藤七原のシデコブシ群落にはほぼ毎年、桜の頃のシデコブシの頃に通ったものだが、何故か不動滝や滝頭のお山とは今天までとんと縁がなかったのだ。
遠目にはなだらかに見ゑた此の山系、即ち、蔵王山(253m)に始まり白谷の石灰岩鉱山で分断されてはゐるが秀麗な衣笠山(278m)、そして西に滝頭山(265m)から藤尾山(208m)へ、長興寺山(242m)の姥ヶ懐鞍部を経て西山(165m)に至る山脈は、各々の山懐ばかりならず、山体のいたるところや山頂、また稜線上に秩父古生層の巨大な岩塊が露出し、登山道は時に修験の山駆けの如く、峻険な岩場をよじ登ることもしばしばであった。
さて、修験的色彩と雰囲気を濃厚に残す滝頭不動の由来や如何に。山麓の由緒書きに曰く、「天平20年(748) 渥美源五郎重国が郡司に任命された頃、行基が郡内を巡歴し滝頭山に仏堂 を建て仏教の山とした。奈良時代には行者の修験の山となった。平安時代に浄土信仰が加わ り、観音、不動、八大童子、三十六童子聖観音、不老谷三十三観音などが祀られた。」とぞ。渥美源五郎重国は先の泉福寺縁起にも、また大本大地の文徳屋敷の由緒にも出現する伝説上の人物であるし、行基菩薩は出るは修験だは浄土信仰だは、何か混沌としてゐてよくわからんので、今少し文献的調査を別途進めることにする。ちなみに滝頭不動の管理者は行基開山と伝はる六連の長仙寺(宗派には属さずとも、真言の教義を奉ずるの寺)とのこと。*1
とまれ、滝は二段になって岩肌を伝ひ、一の滝周辺にはたくさんの石仏が配置されてゐる。一瞥した限りでは、信仰遺跡の重要な要素である丸石や山茶碗などの考古遺物はみられなかった。精査は次回に譲り、急斜面を滝頭山山頂方面へ、急峻な山肌を登る。
          

とりわけ冷気(霊気)漂ふ雰囲気の一ノ滝
          
稜線に出るとあとは起伏豊かなウバメガシやカクレミノ、タブノキヒサカキの林の中を進んで行く。木漏れ日が美しく、ゆるやかに湾曲しつつ起伏をみせる山道がまたこの上なく美しい。
取り敢へず藤尾山の山頂は見ておかうてうことになって、大きな上り下りを経て到達。南斜面が伐開された山頂周辺は日当たりもよく、格好の休憩場。南方遙か彼方に、現在緊急調査中の雁合遺跡や宮西遺跡を遠望することができる。なるほど、130m前後の向山が屏風を立てたやうに立ちはだかり、こちら長興寺山系と対峙して宮西の沖積地はまさに回廊状。
            

 
           
其ノ後は滝頭山方面、恐竜の背鰭の如き切り立った岩場から衣笠、蔵王方面を望む。
          

 
            
此のママ稜線を辿り、上り下りを繰り返して衣笠山を目指さうと思ったものの、遠望せし山道の余りの雄大な距離に恐れをなし、不動滝から車に戻り、藤七原から衣笠山の中腹まで林道を自動車で移動。どっしりなだらかな甘南備の山容を持つ衣笠山だが、登山道は直線的に山肌を這ってゐるために大変険しく、滑りやすい。こちらもまた、ゴッホの絵を構成する曲線群の如くうねる黒々としたウバメガシの幹が見事。歩みを進めるごとに、此の世の森であるのか幻視世界の中を歩んでゐるのかさへ定かではなくなってくる不可思議な感覚。
20分ほどで山頂稜線に出たが展望は無く、其処此処に巨石が屹立してただならぬ雰囲気。中には天白磐座遺跡*2を小型にしたやうな立石群もあり、早速次回の捜査対象に登録。いちばん大きく突き出した岩場の上に小さな祠。「田原山宮奥社」の石碑。そもそも田原山宮の正体そのものが不明だが、此の祠の御正体も不明。けだし極めて修験的な雰囲気の強い環境にあり、要注意。
           
 
               
さすがに強行軍で草臥れ果てつつあったが、下山して自動車で蔵王山頂へ。展望台のフランス料理屋?は潰れてしまったやうだが、売店兼食堂で焼きそばだのみたらし団子だの五平餅だのを貪り喰ふ。気取ったフランス料理よりも、こんな庶民派のメニューの方が気が置けなくて宜しう御座ゐますですね。
NKGM君とは此処でお別れ。WD氏は伊良湖岬からフェリーで知多半島へ帰還。再見!
             

            

*1:東京は高円寺にも長仙寺が存在するが、そちらの本尊が不動明王とか。関係の有るや無しや?

*2:浜松市引佐町井伊谷