時空の間隙

重機は時間の皮を剥がしていく

今天は八千年前と八百年前の時空往還二本立て。
先週緊急に調査した縄文時代早期の炉穴遺構。担当者の努力と関係業者の協力もあって、僅かに残された周辺部分の調査が出来ることになった。午前中は表土の再掘削立ち会ひと、整備。巨大なユンボのバケツで薄く表土を剥いでいくと、やはり焼土と被熱礫の詰まった円形土坑が出現。更に其の周囲には、何カ所も焼土の痕跡や怪しげな黒色土、細かな炭化物の散ったやうな場所が有る。おまけに土坑脇から白色風化石材製の石槍も出現し、おいおい、このまま行けば早期から草創期にまでも時間が遡って行きますぜぃ。
大地の乾燥を防ぎ、遺構を養生するため、調査範囲にブルーシートをかけて調査の準備完了。明天からしばらくは、此処に残された僅かな黒土層の悉皆精査に全力を投入する。田原市宮西遺跡を望む段丘上、雁合(がんごう)遺跡である。
(-_-)
           
午後からは二川の普門寺方面に遠征。目的は二つあって、先日調査の終了した元堂跡の見学と、重要文物の発見された平場遺構の踏査。元堂の巨大な平場には縦横に調査トレンチが設定され、一部は地山を求めてかなり深く掘削されてゐた。ただ残念乍ら、新たに検出された石垣の行方や謎を秘めた池の底や周辺調査、また、荒々しい鎌倉風の石積みで囲まれた基壇の輪郭確認などは行はれなかったやうで、極めて残念なこと。
結局、嘗て経筒(経塚)が発見されたと言ふ須弥壇の断ち割りも行はれてゐたが、区画内に盛られ詰められてゐた埋土からはかなり新しい丸瓦などが発見されたやうで、経塚文物発見の際にかなり大規模に撹乱されてしまつたやうだ。さう、撹乱と言へば、元堂を弧状に取り巻く崖の上の斜面には、大規模な中世墳墓が展開してゐるのだが、前回踏査した時には見られなかった巨大な盗掘坑が何カ所も見られ、一部には周辺に掘り出された渥美・古瀬戸製品の破片やかわらけなどが無造作に放置されてゐた。盗掘者は蔵骨器である壺のまるごとが目的だらうから、破片には興味が無かったやうだ。
エジプトの例を引くまでもなく、古くから盗掘行為は存在したであらうし、当地の中世墳墓に大盗掘ブームが押し寄せたのが昭和40年代のこと。此の中世墳墓も泉福寺のそれと同様、ほぼ全面的に盗掘され尽くされたやうであったのだが、盗掘者は現在も猶やって来てゐたのだ。
(ー∧ー)誠にけしからんことだ!
ちなみに現地説明会は2月3日に行はれるやうだが、当日は来られないので残念様。調査担当者の説明や、遺構の解釈、調査結果に関する蘊蓄を聞きたかったのだが・・・
其ノ後、気を取り戻して平場遺構の踏査を開始。元堂は山林中腹に存在するが、現在は山裾の山懐に存在する本堂から元堂までの斜面には信じられないほど大規模な平場が連綿と続き、周囲の山肌全面が雛壇を為してゐるかと思はれるほど。想像を絶する規模の土木工事が何代にも亘って続けられて来た結果だらうが、七堂伽藍てう成句を引くまでもなく、いったい此の山中にいくつの堂宇僧坊が林立してゐたのかしらむと想像するだにあやしうこそものぐるほしけれよ。
とまれ、重要文物の採取された平場は他の平場と明らかに趣を異にする空間で、ともすれば庭園風の石組みさへ認められる。崩落した瓦礫や立木の根株に阻まれて、地表の平面的な観察は局地的な範囲に限られてしまつたが、再踏査の必要有り。
忽ち夕刻となり、観音浄土は補陀落の果て、伊勢の彼方に沈み行く黄金色の黄昏は国見せし大岩の頂きから。夫れ、観想せよ。