火廼御用心

太占や盟神探湯用にあらず

今天は小雨に乗じて、竈の手入れも兼ねて伐採した月桂樹の小枝を用ゐ、大いに南蛮燻しをおこなってゐたのだが、例によって近所の五月蠅いおばばさまが目敏く其の煙を見つけ、「何事か」と早速尋ね訪ね来たりて、
「この雨降るなか、お前様はいったい何の煙を立たせ給ひけるか」とぞ。
此のおばばさまは近所で評判の五月蠅方でありますが故、本来なら「いらんことであるぞよ」と追ひて払へばそれまでのことなれど、さすれば「世間様に追ひ返された」だの「小火が発生してゐた」だのと間違って吹聴されると困りますが故、
「数年前にもおばばさまに見せたと思ふが、我が台所の竈の煙通しをせむとや、柴をくべてゐるので御座ゐますがなにか?」
などととぼけてみせた。するとおばばさま、
「かばかりの近世現代に在りて猶、お前様はまんだ竈など使って飯炊きなどしつることぞもや」と。
「さにありなむ、さすがの大世間様の権化たる我輩も、飯炊きは現代的電気式炊飯器にて其の用を足せり。此の煙はあくまでも竈手入れの煙通しにて、長時間に及ぶこともなき故に案ずるに及ばず。いざやゐねや、よや。」
「左様な事情とあらば、なもひとまづ安心してゐぬとしやうぞ。」
「やるまいぞやるまいぞ・・・」これでは逆か・・・
「ゐねやゐね、いざやゐねや」
(–_–;)
        
何か似たやうな会話を数年前にもしたやうな記憶が有るが、それはさておき、数十年前まではどの家でも毎天盛大に竈の煙を上げてゐたはずの此の国で、旧態を保つものが何故ここまで奇異の目で見られなければならないのかはよくわからんが、矢張り隣近所が皆同質且つ同様な生活形式でないとそこはかとなく不安なのだらうね。これこそ、無数の地方の大集合体である日本列島各地に居住せる日本人の日本人たる所以なのだらうが、息苦しさを感じてゐる人も居るのですよ、てうことをも少し容認していただきたいな。
此の鄙の地も、今では中途半端な田舎に成り果てて、それでゐて猶江戸以来の村社会は濃厚に結合して余所者を強力に拒み続けてゐることは確かなことだ。田舎の良さは此の排他的体質と裏腹に存在するのであって、生来の土人は永遠に世間様とは別ものなのだ。
まあ、此のおばばさまの場合はちょっと極端な例なのだけど、御本人様に悪意が感じられない分余計に、当地の基本的気質が凝縮されてゐるやうで、分かり易い。
(―_―)
           

竈神と厠神 異界と此の世の境 (講談社学術文庫)

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