経塚 - Wikipedia

畿内を中心とした地域に造営された多くの経塚に、埋納の為の外容器(経筒)を一番多く提供してゐたのが渥美窯であるが、現在判明してゐる最古の紀年銘は高野山奥の院出土のもので、永久二年(1114)である。渥美窯のなかでも藤原顕長銘の特注製品を焼成してゐたことで有名な大アラコ古窯からは、同時に紀年銘をもった製品も発見されてゐる。藤原顕長三河国国司から三河守となったのは保延二年(1136)で、彼が二十歳の時である。久安元年(1145)に二十九歳で遠江守となり、久安五年(1149)には再び三河守に戻り、久寿二年(1155)までは其の任にあった。普門寺元堂経塚には渥美窯製の経筒の中に銅製経筒が収められてゐたが、そちらの紀年銘には「当山十三世勝意願之 久寿三年 藤原成恒」と書かれてあり、ほぼ同時期のものであることがわかる。
さて、先の瓦経は伊勢の小町塚出土のものであるが、紀年銘は承安四年。前年には都で親鸞が生まれ、平清盛大輪田の泊まり(神戸)に人工島である経が島を築いた年でもある。「5月29日、妙法蓮華経巻第六、於南閻浮提日本国東海道三河国渥美郡伊良胡郷□□□」「壇越度会常草、女檀那度会氏、度会春章、助筆願主等僧良中悲母没」「当御厨前領主度会神主常行 右以結縁書写力 如此等与有縁徒云々」
いくら伊勢の御厨が伊良胡に有り、其処の特産物が焼き物であらうとも、神主達の間で経塚造営の大流行が発生する背景には、都から直接末法を説く者が伊勢に来たか、はたまたよほど契機となる出来事(それは例へば日食のやうな天文現象でもよい)がなければこれほどの集中は生まれなかったことだらう。
治承元年(1177)の西行の伊勢二見居住開始は、このやうな思想的背景の世の中であったことを考へると、別の意味が見へてくるのかもしれない。都に大火が相次ぎ、保元・平治の乱を典型として争乱絶ゑず、人心は日々の生存に疲弊し、ただただ仏の慈悲にすがり来世での救済を恃むのみ・・・
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