西山巡検

篠島産の花崗岩(藤原1号墳)

今天は伊良湖から西山方面の巡検
いつのまにか西山の堤防沿ひに出来上がってゐた巨大な風車の、ぶむぶむしゅーしゅーと不気味な回転音を間近に、無限に広がる甘藍畑(現在寒玉と呼ばれるものの出荷最盛期)を横目に、防風防砂林としての役割を担った松林に分け入る。
藤原古墳群は西山に発達した砂丘上に存在する。地元の者には古くから知られた古墳群だったらしく、大正12年刊行の『渥美郡史』には、「藤原古墳24個中既発掘6個、発掘物、𤭯、横瓶、高坏、坏、坩」といふ記載がみられる。此の記事に繋がる事実として、面白い話しが伝わってゐるので、調査報告書である『藤原古墳群』(1988) から引用しておかう。
            

大正の始め頃、亀山の神宮御衣御料所(きぬ神さん)の渡辺熊十氏が福江の天野助吉氏と共に持統天皇御陵伝説を唱えて奔走し、大正5年2月に宮内庁の増田干信氏を迎えて藤原古墳の実地調査をはじめて行った。
当日は中山区長清田森太郎氏が責任者となり、漁師の者がしりごみする中で青年団員数名が第2号噴の発掘を始めた。ところが羨道を掘り進んで玄室に当り、入口からおみきすず2個を手にとりあげた途端に、増田干信氏から「それまで」という声がかかって実施調査は中止となった。
           

             
此の古墳の発掘を漁師が恐れるてうくだりが興味深いが、其れは海人族の遺伝子の為せる技か。更には現代にまで伝はる後日譚では、2号墳調査の晩になって雨が降り始めたが、古墳の辺りに火柱が上がったといふ通報があり村中が騒ぎになって消防車まで出動した。ところが近くへ行っても火の気は無く、消防団は火元を捜して夜中山を走り回った・・・
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現在の古墳周辺はほぼ一面の松林になってゐるが、近年立ち枯れが目立つ。報告書には17基の古墳分布が図示されてゐるが、現地を歩いてみても1号墳(直径約25m)の秀でた高まりと其の周辺に陪塚の如く点在する数基の他、なかなか墳丘の位置を特定できる状況ではなかった。郡史に記されたやうに、嘗て24基もの古墳を認識することが出来たとは驚きである。
これら古墳の年代は、其の石室形態や出土した須恵器の形式などから6世紀中葉を中心に構築されたものと考へられてゐる。石室に用ゐられた石材は花崗岩と凝灰質砂岩であり、砂岩は佐久島より、花崗岩篠島から運ばれてきたものと思はれる。現在では南知多町幡豆郡一色町に属する両島だが、西山の海岸に立てば驚くほどの近さ、指呼の距離に両島を望むことが出来る。
古墳群の存在する砂丘列と平行して、現在の海岸線までにあと2列ほどの砂丘列が認められるが、海岸側の隣の砂堆上のところどころには製塩遺跡が点在してゐる。こちらは奈良朝前後に営まれたことが推定されてゐるが、砂丘列の形成過程を知る上でメルクマールとなる遺跡の在り方だ。
ところで、石室内部の床には渚の砂礫や、扁平な所謂丸石が一面に敷かれてゐたやうだ。此の丸石は、古くは縄文集落に於いて石錘の材料として用ゐられ、川地貝塚などでは無数発見されてゐるが、古墳内部の敷石の他、神社境内の敷石や祠基壇周辺への奉献、磐座や神社への願掛けの時のお供へや、中世墳墓の構築材料や奉献物として宗教を越ゑ、また現在でも用ゐられてゐる。山中で此の丸石を見つけたら、其の周辺には必ずや何らかの遺跡が存在してゐると考へるべきである。以前、旧伊良湖神社境内地の斜面をかなり登った中腹で古地図に記された経塚を捜してゐた時、丸石が集積された謎の塚状遺構を数カ所発見したが、鎌倉期の茶碗や砕けたかわらけの破片を得た以外には性格の掴めない遺跡であったことなど、ふと思ひ出した。
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太平洋岸の自転車道や防砂林の松が次々と枯死して行く状況は、ここ数年間で加速度的に広がっており、正にパンデミックありさまだが、此処西山の松枯れもかなりひどい。相当大きな松も方々で枯死し倒れてゐるが、其の周辺には未生苗が無数に生ゑてゐるので、自然回復力はまだ有るのだらうね。しかしここまで全体的な発症だと、原因は最早松喰ひ虫ばかりではなく、寧ろ気候の温暖化などの大きなスケールの問題のやうな気がする。
兎に角、今回の西山巡検は最後に風車近く、栽培漁業中心脇の一膳松遺跡で製塩土器をいくつか表採して無事?終了!
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これは枝振りの大変よろしきもの
          
風に靡く松林全体のゆらぎ=風衝林
             
倒木周辺に出現した未生
             

枯死してしまつた松の古木=典型的な風衝樹形、「スリーピー・ホロウ」を連想する?