白山覚書き

白山比咩神社鳥居は太平洋を望む

本朝七高山と言へば、伊吹山比叡山、比良山、愛宕山、神峯山、金峰山、葛木山だが、これらは四神相応の都を取り巻く諸山のこと。一方、ほぼ同時期に列島各地に存在する特徴的な山々では、山岳信仰体系が醸成され原始的な修験道が形成を始めてゐた。大峰山石鎚山出羽三山、彦山、木曽御嶽山、白山、立山葛城山岩木山などがその代表例。
         

白山比咩神社:御由緒
白山比咩神社は、白山比咩大神【しらやまひめのおおかみ】(菊理媛神【くくりひめのかみ】)・伊弉諾神【いざなぎのかみ】・伊弉冉神【いざなみのかみ】の三柱をご祭神として、遠く神代の昔より霊峰白山を神体山と仰ぎまつってきました。その創立は今から2000年以上も昔の祟神(すじん)天皇の時代と伝えられ、927年に記された『延喜式』にも名社として挙げられています。古来「下白山(しもしらやま)」と呼ばれた本社は、霊峰白山の「まつりのにわ(祭事を行なう場所)」として設けられた白山本宮で、「加賀一ノ宮」として尊敬され、「白山(しらやま)さん」として多くの人々に親しまれている北陸鎮護の大社です。
養老元年(717)僧泰澄(たいちょう)がはじめて白山に登拝してから後は、朝野の信仰益々篤く、修験道場として隆盛を極め「白山衆徒三千を数う」と称せられました。 その後、文明十二年(1480)の大火によって四〇有余の堂塔伽藍が悉く烏有に帰しましたので、末社三ノ宮の鎮座地である現在地に遷られて今日に至りました。 明治維新の後は「下白山」を本社、「白山天嶺(はくさんてんれい)」を奥宮とし、“国幣中社”として国家から特別の重い待遇を受けましたが、終戦後の今日では、全国に奉斎されている三千有余の白山神社総本宮として“白山信仰”の中心をなしております。
このようにして当社には白山比咩大神の大御稜威(おおみいつ)を欽仰して、神恩奉賽の誠を捧げ、神楽(かぐら)を奉奏する崇敬者が四季を通じて跡を絶たず、とりわけ正月・五月及び九月は「おまいり月」と称して参拝者が多く、御社頭が賑わいます。 日ごと月ごと「白山さん」の神前に奏でまつるみやびやかな神楽(かぐら)の音が、神さびた神苑の老杉古欅にこだまして、御霊験愈々いやちこなるものを拝します。
               

            
白山は南側に高山を擁しないことから、美濃・尾張など東海地方からも其の姿を遙拝することが出来るが、堂々たる山容は日本海からもよく見ることが出来る。日本海を行き交ふ漁民達の信仰を集めてゐたことは、言ふまでもない。
現在の祭神は上記引用の如く三柱となってゐるが、主神は言ふまでもなく白山比咩大神である。菊理姫に関しては説話的な色彩の強い人物なので、後世の付会であらう。山神は女性(女神)である場合が多い。
       
富士山:木花開耶姫命 - 浅間大菩薩
白山:白山比咩命 - 十一面観世音菩薩
立山:姥神 - 阿弥陀如来
        
早くから白山修験道と利害を共有していたのが延暦寺天台宗山門派)で、特に越前の平泉寺は1084年に延暦寺末になり、遅れて加賀も美濃も延暦寺の影響下に入ってゐる。歴史的にみると白山と比叡山との関係は、言われているほど絶対的なものでなく、白山に関わった宗派も単純なものではなかった。 また、白山信仰は単純にひとくくりにとらえられるものではなく、越前、加賀、美濃の三つの地域は独立した白山信仰をもってゐたやうなので、それぞれが関係する宗派も異なってゐただらう。
美濃も山門派との関係が濃かったが、寺門派(本山派修験)や真言密教とも関わってゐる。白山比咩神社(白山寺)がある加賀も同様で、天台宗の寺門派(園城寺系)と山門派(延暦寺系)が混在してゐる。
白山山頂の帰属をめぐって、越前馬場の平泉寺との間で争論が展開されており、この過程で加賀馬場は、従来の天台宗から真言宗へと転じた。
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違和感全開の菜の花畑は今が満開
           
今天の寒さは別格で、近所での用事をせむとや自転車出してみたはよいが、吹き付ける北風と余りの寒さにめげて、往還瀬古道にちょこっと出たところで諦めて陋屋に引き返してしまつた。勿論、用事は明天へ先送りなのだけれど、明天が更に寒いてう予報が出ておりますので、此の判断は誤りだったかしらむ。
部屋の中でも吐く息の白きことは、今更言ふまでもなからう。
(−_−)。。。
          


白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って 白山信仰の源流―泰澄の生涯と古代仏教
         
ところで、白山平の地名の由来は?