大山詣で

海上遙か、常世を望む

大山への登山は今回が4回目。
渥美半島最高峰で、標高は328m、其の堂々たる山体は秀麗な村松白山や蔵王衣笠山のやうな甘南備形とはまた違ひ、敢へて例へるなら山襞の無い月山の如き風体。最高峰にもかかはらず、其の山塊山容が低地のどこからも際だって目立つといったやうな存在感ではなく、寧ろ300mもの標高を感じさせない女性的な穏やかさがある。なだらかで穏やかな、堂々たる存在。
先日来集中的に踏査を行ってゐる(内湾=三河湾伊川貝塚〜大本台地方面からほぼ真南に延びた椛の谷は、大山の山裾=喉元にほぼ一直線に向かってゐるのだ。椛の銅鐸は勿論椛谷に埋設されたのだけど、大観すれば大山の山懐に埋め込まれたと換言してもよい。しかも徹底的に破断されて・・・
大山の南側、即ち太平洋側は山塊がそのまま直に遠州灘に向かって突出したやうな地勢であって、極めて直線的な表浜海岸を途中で分断してゐる。そんな太平洋岸から見上げても、斜面の角度の妙が作用して頂上を見ることはできないが、南山麓には白山比(口羊)神社が鎮座してゐる。此の参道脇から、大山山頂への登山道が始まるのだが、凄まじい急角度と短い九十九折りの荒れた道で、察するに頂上に設置されてあった秘密電波送信所を管理して居た自衛隊の重機によって急激に、しかも激しく伐開掘削された道なのだらう。
参道両側にはウバメガシを中心にした原生林が広がるが、タブやカゴの巨木もみられる。山麓のウバメガシは高さが5mにも達するものが多いが、山腹から上は高さ3m弱の細いものが密に生えており、人間の侵入もままならぬ部分も多い。
              
hard & winding road
            
中腹の御嶽神社は下山の時にして、雨による浸食で荒れに荒れた登山道を登ること1時間弱、頂上手前の通信塔に到着。山頂三角点は其処からまう少し上だが、周囲が伐採されてゐないため展望は無し。実際に下界を望むことが出来るのはも少し先の大きな送信施設を取り巻くフェンス周辺でのこと。
南側からは伊良湖岬先端から神島を経て紀伊半島の山脈が、北側からは眼下正面には屏風を立てたやうな泉福寺の山脈から雨乞山や椛谷などを経て、三河湾対岸や知多半島方面、三河本宮山ばかりか東方に延びる表浜海岸まで見ることが出来る。
             
遙かに神島を望む
          
泉福寺背後の山脈が立ちはだかる
           
銅鐸の谷から大本台地、更には三河湾と対岸まで 
              
今天の展望は中級で、何やら靄のやうなものがかかって遠方は明瞭ではなかったものの、大山の大山たる所以を体感するには十分な展望であった。撮影と休憩後、下山。本来なら北側の稜線を下って椛の谷または泉福寺山方面に下りてみたいのだが、それでは登山口に乗り付けた車に辿り着けないため南側を往復。
そんな下山途中、順序が逆になってしまふが、9合目あたりにひっそりと佇む御嶽神社の奥宮に参詣。奥宮と言っても、石組みの基壇の上に石の祠が鎮座するのみだが、明治26年の紀年が有る。
            

             
其ノ後どんどん下山して、5合目?あたりに鎮座する御嶽神社へ。江戸時代の創建と思はれるが、詳細不明。此の山中にして斯くも立派な石段、石組み、拝殿の中には一対の社殿祠などがみられる。境内には定石通り海の丸石が・・・
          
 
           
当地に於ける大山講と御嶽講の関係はよくわからんが、山岳信仰や修験との習合と言ふ意味では心性を共通にするものと考へてよいだらう。さすれば、登山道の麓に祀られてゐた役行者?の石像の意味も解釈できるのかもしれない。
大山は山頂の通信施設のために地形の開拓著しく、残念乍ら信仰の痕跡や歴史の残照を見ることはできなかったが、南山麓の白山媛社の存在は、泉福寺境内の女陰形磐座を御神体とする白山菊理姫社と其の御正体の根本原理において密接に関連し、同時に渥美氏発生の謎に関与していく。嘗て稜線を貫き人々の往来が盛んに為されてゐたてうことは、神々の往還を伴ってゐたとも、神々の往来の道程を人間様が辿り歩んでゐたとも考へられやう。
          
そして今天は神島の彼方に黄金の黄昏、沈み行く太陽の道が重なる。黄金色の海上の道・・・