再考

黄金の黄昏

それにしてもなんだね、世に名だたる大神宮や歴史有る式内社の殆ど全てが新暦にうつつを抜かし、かまびすしく大祓の儀などを執り行ってゐる様子を見てゐると、実に複雑な心境で御座ゐますね。新月の神秘性を欠いた元日など、果たしてどれほどの意味が有るのか無いのかはよくわからんが、カミサマも半ば諦め顔で苦笑なされておられることでせう。
(-_-)
         
ばうばうと地上の全てのものを虚空の彼方に吹き飛ばすが如く、日中ずっと凄まじい北西風が荒れ狂ふ。
寒いし、ランデブーも何も予定の無いことにかまけて、今天は思ひつきり昼まで眠ってやらうと思ふのだが、そんな時に限って早く目覚めたまま二度寝に入ることが出来ず、8時頃には寝床を出てしまつた。そこで思ひ出したやうに繙きはじめたのが故清田和夫氏の著作のなかの未完の論考である「伊良湖東大寺瓦窯考」であったことは、今更言ふまでもなからう。
此処でのキーワードは、西行、重源、伊勢神宮荒木田氏、瓦経、小町塚・菩提山経塚、伊良胡御厨、万覚寺など。国の史跡である東大寺瓦窯跡は伊良湖の初立に存在するが、瓦経文中に表れる「瓦工平四郎」なる名前に由来する小字などの探査過程で、古窯址から西方に僅か数百メートル離れたところに「平四郎構へ」なる地名の存在することまでは突き止められた様子。残念乍ら今に至るまで「万覚寺」の所在は明らかではないが、其の所在を明らかにすることは伊勢と伊良湖御厨の関係の根幹に係はるばかりならず、経塚に用ゐられた外容器や壺などの流通経路の解明に手懸かりを与へ、やがて渥美半島地域に於ける中世前期の信仰形態を解明することに繋がって行くのだ。
高野山を出た西行が都の戦乱を嫌ひ避け、伊勢の二見浦の安養山(豆石山)に居を構へたのが治承四年(1180)のこと。『山家集』下巻雑の巻に収められた伊良湖関係の四首は、いずれも海人の生活に密着した視線を持った内容だが、ヰガヒ(胎貝)、阿古屋(貝)、鰹、鷹など、今でも常世浪立つ海辺に馴染み深ひものが主題として選ばれてゐる。
          

           
1  いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやの
  むねと侍るなり、それをとりたるからを、高く積みおきたり
  けるを見て

 あこやとるゐがひのからを積み置きて宝の跡を見するなりけり
           (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1387番)
             
2  二つありける鷹の、いらごわたりすると申しけるが、一つの
  鷹はとどまりて、木の末にかかりて侍ると申しけるを聞きて

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな
       (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1389番・夫木抄)
            

3  いらご崎にかつをつり舟ならび浮きてはかちの浪にうかびてぞよる
          (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1388番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)
 
4  波もなし伊良胡が崎にこぎいでてわれからつけるわかめかれ海士
             (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
            
           
○ゐがひと申すはまぐり胎貝。イガイ科の二枚貝
 (い貝)と(はまぐり)は別種の貝ですが、西行は(い貝)
 も(はまぐり)と同種のものと認識していたものでしょう。

○あこやとる
 真珠を貝から取り出すことです。
 真珠のことを古くは「阿古屋玉」とか「白玉」と言っていたそう
 です。万葉集にも「白玉」の歌は多くあります。
 古事記編纂者の太安万侶の墓から真珠4個が発見されましたが、
 鑑定の結果、鳥羽産の阿古屋真珠とのことでした。
 聖武天皇の愛用品にもたくさんの真珠が用いられていて、古代
 から真珠は「宝」として珍重されていたことがわかります。
 西行歌にも「白玉」歌は多くありますが、露とか涙にかかる言葉と
 して用いられていて、真珠を表す「白玉」歌はありません。

○あこやのむね
 阿古屋の宗。阿古屋とはウグイスガイ科の二枚貝のアコヤガイの
 ことで、真珠の母貝となります。
 宗とは主の意味で、本体とか中心を表します。したがって「あこ
 やのむね」とは、真珠そのものを指します。
 真珠は主として阿古屋貝から採れるという意味も含みます。

○わかめかれ
 (わかめ=若布)は海草の一つで食用。(かれ)は(刈れ)
 ということ。わかめを刈りなさい、という意味。
 
○かつをと申すいを
 魚のカツオのこと。

○はかちの浪
 西北から吹いてくる風に立つ浪のこと。

○二つありける鷹
 「巣鷹」と「山帰り」の鷹を言います。

○すたか
 「巣鷹」。巣の中の鷹の雛のこと。また鷹狩り用に巣の中の雛を
 捕獲して飼育すること。飼育された鷹自体も「巣鷹」といいます。

○山帰り
 年を越えて山で羽毛をかえた鷹のこと。その鷹を鷹狩り用に捕獲
 して飼育しているもの。

○一つの鷹
 「山帰り」の鷹のこと。

○われから
 「割殻虫」という海生の虫の名前。海藻などに付着している甲殻
 類節足動物の一種で体長は3〜4センチ。4番歌は伊勢物語の下の歌
 を参考にして詠んだ歌ではないかと思います。

 恋ひわびぬ海人の刈る藻にやどるてふ我から身をもくだきつるかな
               (伊勢物語 第五十七段)

○いらごわたり
 愛知県渥美半島伊良湖から、伊勢湾を超えて伊勢の鳥羽まで、
 もしくはそれよりも遠くに鷹が飛び渡ること。伊勢湾は渡り
 鳥のルートになっています。
 4番歌の場合は飼育されている鷹ですから、渡り鳥の場合とは別
 に解釈されます。訓練のために伊勢から伊良湖へ渡らせたもので
 しょう。
 (1番歌の詞書と歌の解釈) 
 「伊良湖に渡った時に(い貝)というはまぐりにあこやが主と
 してあるのである。その真珠をとった後の貝殻を高く積んで
 おいてあるのを見て」
 「真珠をとるい貝の、真珠をとったあとの貝殻を高く積んで
 おいて、宝のあとを見せるのであったよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
 (3番歌の解釈)
 「伊良湖崎の沖の方から、風が悪いというので、鰹を釣る舟が
 一斉に並んで、西北からの風に立つ波に揺られ浜辺をさして
 近寄ってくることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
 (4番歌の解釈)
 「巣鷹は疑うことなく伊良湖へ渡るけれど、山帰りは自信が
 ないのか臆病なことにいったん飛び立ってもまた木に戻って
 しまうよ。」
 「鷹の生態を聞き取った二見浦での体験を詠むか。成人してから
 の出家者としての自身を「山帰り」に重ねているが、最晩年と
 いうより「鈴鹿山憂き世・・・」歌の詠出時期に近いか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 (伊良湖の渡り鳥)
芭蕉に「鷹一つ見付てうれし伊良湖崎」という句があります。
笈の小文)の旅の時の伊良湖での句です。尾張鳴海まで来てから、
引き返して渥美半島先端の伊良湖に向かったと記述されています。

この句や西行の歌にあるように伊良湖と鷹は関係が深く、古代から
「鷹渡り」の中継地点として知られていたようです。
冬渡りする鳥たちは10月頃に方々の生息地から伊良湖岬に集合します。
そして何百羽、何千羽という規模で、上昇気流に乗って飛び立ちます。
伊良湖から各地を経ながら、あるいは一気に南方を目指して日本を
離れます。そしてまた次の年の春には日本にやってきます。
鷹などの猛禽類だけでなく、ツバメ、ヒヨドリメジロなどの小型
の鳥なども伊良湖渡りをするようです。
今号の4番歌の場合は鷹狩り用に飼育されている鷹であり、渡り鳥
としての鷹ではありません。ですから「伊良湖渡り」と言っても、
渡り鳥の場合とは意味が違ってきます。伊勢の鷹匠が訓練の一環と
して伊勢から伊良湖まで飛ばしたものと解釈して良いでしょう。
                        (まぐまぐ西行辞典より引用)
           

            

都合七年間も二見に居住した西行だが、内宮の祀官荒木田氏とはとりわけ深い関係を結び、神宮の神官たちに京のしきたりや和歌の道を説いた。うち、愛弟子としては外宮宮司度會氏出身の度會春草の名が知られてゐるが、春草は伊良胡御厨領主度會常行の二男である。此の度會春草は、承安四年(1174)紀年の小町塚瓦経銘文にも其の名を記す人物だが、愛弟子を介し大神宮とも縁の深い伊良胡の地に赴き滞在し、自ら海辺を歩き見た其の自然や風俗を詠み込んだ和歌を残したに違ひ無い。
此の伊良胡御厨の産物の代表例が、所謂渥美古窯で生産されてゐた焼き物である。恐らく、飽海二川あたりの須恵器窯にその起源を持つと思はれる渥美の窯業だが、常滑同様日常雑器である山茶碗や小皿、壺、甕を基本にし、経塚外容器、陶製五輪塔、瓦塔、蓮弁文壺、各種篦描き文様の壺や瓦経など、宗教色の極めて強い特殊製品が加はってくることが、他の古窯には見られない特徴である。
西行と伊勢及び伊良胡の関係を例に引くまでもなく、これら三者は産物の流通てう直接的な貿易関係ばかりではなく、宗教の教線に於いても密接に結び付いてゐたのだ。勿論、此の関係は産品の貢上などのやうに一方的なものでは決してなく、しきりに情報の往還が交はされてゐた関係であることは言ふまでもない。全国に流通してゐた渥美古窯産品の背後には、先づ伊勢神宮に代表されるやうな目に見へない信仰上の経絡が伏線として作用してゐたことを忘れてはならないのだ。
そもさ、万覚寺や何処・・・
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新暦おおつごもりのお駄賃で、「風林火山」総集編の放送。我輩が欧州を流浪しておった時の未見分も、やっとこさ見ることができました。
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夕方には意表を突く同志MSYM君の来訪。
さうですか、鎌倉にお出掛けだったのですね、昨天は。日暮れまでの短時間だったが、渥美古窯の本質が如何に広告されてこなかったか、また問題意識を持った学術的調査が如何に為されてこなかったかなどなど、問題点を厳しく指摘。骨董界や旦那衆に先導された例の「黒い壺」の一件に関しても同様の構造的問題によるもので、即ち在野も含めた研究者の怠慢がこれら原因の大部分を占めることは間違ひないだらう。
兎に角、愛知県史古窯之巻発刊を目標にして、大渥美古窯シンポジウムを開催するくらいの心意気が必要であるぞよと、エラさうに檄を飛ばしておく。 
(ー∧ー)
        
ところで皆さん、今天はまだ11月22日なんですよ〜ってば! 
(-_-)ワカッテクダサイヨ〜(ブレードランナーに出てくる屋台のオヤジ風に)