展示三昧

逡巡苔むす

もの言はぬ展示は、どこまで展示者の意図を伝へることが出来るのだらうか。
もの言はぬ展示は、どこまで展示物そのものの存在理由を人民に伝へることが出来るのだらうか。
           
展示された文物の解釈は、使用目的を特定できる一部のもの以外は人それぞれだらうから、その不安定な解釈を確信して、新たな言語表現や展示方法で提示することによって、文物の見かけの本質はその時その場所なりの存在理由を与へられ、恰も権威の如く展示の彼岸に鎮座することになる。人々の手の届かぬ硝子の向かふ側に置かれた文物に新たなる生命を吹き込み、カビ臭ひ骨董的領域から、其れを使ったヒトの手垢や体臭、はたまた姿まで幻視させることの出来るやうな展示は出来ないものか・・・
(-_-)
            
逆説的に言へば、「相互誤解」は或る意味で結果的にお互ひの理解を早めることも多いが、的外れな勘違ひや単なる無知による蒙昧的解釈、更には惰性的な展示はもはや罪であらう。展示者の自己満足は、その領域が学問的にマニアックな場合は、希に想定以上のインパクトを見る者に与へることもあるし、想定外の共鳴を誘引して人々に霊感を与へることさへある。でも、残念ながら大半は説明責任の放棄に等しい側だ。
細部にまで神経を使った展示が総体的な質の高さや分かり易さを保証するものではないが、例へば小中学生にも理解可能な解説であれば、大人も含めた大半の見学者も容易に理解出来るのだらうが、コドモ専用の博物館でもない限り、大人には物足りなく不満の多い内容と映るかもしれない。ごくごく少数の専門家に対する解説などは一般の博物館では殆ど無用であると思はれるが、かといって蓄積された研究成果を全く開陳しないことは、博物館本来の機能を果たしていないやうにも感じられる。しかし結局、想定された客層のクラスター的n値を思ひ描き展示物や展示における表現方法が準備されることが多いだらうから、平均こそ王道に通じるとでも言ふべきか。でも何か、物足りないことは確かなこと。
いくら最新の映像技術を用ひ新奇工夫した展示を誇っても、物珍しさの陰に主題が溺れてしまったり、技術的目新しさの方が強い印象を残してしまっては本末転倒だし、結論は前回同様、「没有王道」即ち「王道無し」になってしまふのだけど、この結論に至るまでの逡巡と試行錯誤にこそ、重要な解答(またはそのヒント)が含まれてゐるに相違ない。
(―_―)などと勝手に解釈し、信じ、粛々と展示活動を行ふ。
      

美術館・博物館の展示―理論から実践まで

美術館・博物館の展示―理論から実践まで

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