ボイン渓谷の豊饒と興亡

タラの石

小雨そぼ降る朝、昨天に引き続き、今天もツアーに参加。
今回はマイナーな遺跡を5箇所巡礼する。ケルティックと題するものだが、新石器時代の巨石墓も入ってゐる。今朝も同じミーティングポイントなので、ポーランド人のお兄ちゃんと暫くお喋りして過ごす。朝から雨なので、今天はニューグレンジ行きの客はいないとのこと。でも他にも雑用があるので、あまりさぼってゐるとおこられてしまふと、15分ほどで何処かに行ってしまった。
今回のガイドはアイルランド人、坊主頭の中年男性だ。客は8人で、初老のメリケンカップル&若いフランス人カップル&イタリア人伊達男(学生)1&オーストリーからの母子と我輩てうメンバー。どの遺跡もなかなか自力で行くには交通手段の関係から難しかったり、ツアーが出てゐても巨大な観光バスで行くのでゆっくりできなかったりするところばかり。
ガイドはダブリンで生まれて小学校まではイギリス育ちのやうだが、殆ど生粋のアイリッシュ。やはり話が流暢で冗談も上手く、身振り手振りを含めて饒舌に、遺跡に関する伝説や民話やその他もろもろの事項も臨機応変に話してくれる。昨天のガイド然り、アイルランドにはこのやうな語り部がぎょうさん居るに違ひ無い。
訪問地域は結局昨天同様、ボイン川流域のボイン渓谷周辺だが、起伏に富む地形の方々に人知れず遺跡が存在するやうだし、川岸の町を見下ろす優美な丘の上には、必ず何らかのランドマークが存在するのであった。
フォーノックス古墳は中規模の円墳で、北に開口し、巨石で囲まれた円形の中央空間に面して三箇所に小さな石室を従へる構造。石室の天井石には多重鋸歯文様が刻まれてゐて、羨道の両脇には多重円文様と、入ってすぐ脇には古拙な人物像?を刻んだ立石。石室に入る前には、ガイドが10分以上、この古墳にまつはる民話や伝説を話してくれたが、祖先の人骨を粉にしたものを羨道奥の暗闇に投げ込むと、闇が消え去り別世界への入り口が開けるてうくだりが興味深かった。いつのまにか周囲は晴れ渡り、日差しが眩しいほど。といっても風はちょっと冷たいのだよ。
                
  
                   
                  
次なるはモナスターボイス遺跡。此処は前回だうしても行きたかったのに交通手段が無く、諦めてゐたところ。尖頭の崩れかけたラウンドタワーや小さな教会の建物が残ってゐるのだが、中心はなんといってもハイクロスだ。残された資料によると、聖パトリックの弟子である聖ブイトが5世紀に建てた教会を中心に興亡を繰り返し、10世紀には何本ものハイクロスが立てられた。レプリカではなく、原位置を保ったまま。前面に聖書の物語がレリーフで刻まれており、それらの隙間にも所謂ケルトの複雑で美しいさまざまな文様が刻まれてゐる。千年もの風雪に耐ゑたことも驚異的だが、そのあまりに堂々とした存在感にはただただ圧倒されるのみ。周囲は共同墓地で、入り口にゲートはあるが入場料など不要。村のおばあさんたちがボランティアで管理してゐるやうだが、ゲストブックに日本語で署名すると大変無邪気に喜ぶのだった。2ユーロを寄進。
                
 
                     
昼食は途中の村SLANEで、街の四辻の近くにあるホテル兼宿屋兼レストランで。ロカンタ式に並んで好きな料理を注文するのだが、我輩は持参したフランスパンがあるので野菜スープとコーヒーのみ。暖かな店内でゆっくり寛ぎ、1時間ほどして出発。数分山道を昇り、村を見下ろすスレーンの丘へ。ここもまた、聖パトリックの伝説の地。現在残る廃墟は16世紀の教会堂跡のやうだが、周囲が墓地になってゐて、墓掘り人夫が一人黙々と墓穴を掘ってゐる様子が印象的であった。此処からはニューグレンジの丘も見通せるし、次に訪れるタラの丘も見通せる。やはりかういふランドスケープは重要なのだ。
                     

              
そして伝説のタラの丘へ。ケルトの200の部族の中の統率者。でもこの場合、政治的な意味は寧ろ薄く、司祭のやうな、精神的指導者のやうな存在がタラだ。丘の上には盛り土や溝の遺構が残ってゐるものの、素朴で小さな石のケルト十字1本と、高さ1mほどのタラの立石1本があるのみ。この何も無さこそ、此処に全てが有ったことを何よりも雄弁に物語るものだが、それが実感される為には語り部としてのガイドの話が如何に重要な役割を果たしたかは今更言ふまでもあるまい。
タラこそ宇宙の中心、心と魂の故郷。
     
さて、我が故郷は何処に・・・・
           
ところでユースの電脳では日本語表示が出来ないだのなんだのと書いてゐたわりに、かうしてたらたらつらつらといろいろのあれこれを書き連ねてゐるではないかてう厳しきご指摘もありましたが、ダブリン市内中心部を隈なく踏査した結果、中国人経営の電話屋(売ってゐるのではなくて国際電話をかけさせる店)兼鍼灸屋(現在改築中)兼ネットバーを発見。中国人が使ってゐるてうことは日本語などもできるに相違無しと見て果敢に入店。指定された液晶画面で上網してみると、いとも簡単に何不自由なくインターネットの操作が全て行へるではないか。横長の液晶画面はHP社製でクリアで見やすく、キーボードが少し古いのが難点だがそんなことはよいではないか。てうことで、この極西の島国でも偉大で尊大な中国人の御陰様の恩恵の端くれで、かうして日記のやうなものなど書き込んでゐるのであった。
ちなみに店内に電脳は15台ほど、事情のわかったダブリン人や西洋人がちらほら利用してゐるが、大半は中国人客。ユースが15分1ユーロであったものが、此処では1時間1ユーロてう安さである。巴里よ、見習ふべし!
入り口の兄ちゃんによって勝手に中国人と見做された我輩は、入店から最後の支払いに至るまで全て中国語(北京語)でのやりとりが奇妙で心地よいのであった。