世間空蝉

沖縄直輸入の石敢当にて候

人間、どの神社仏閣に参拝しやうが参詣しやうが、自宅で黙し内観して祈りを捧げやうが、路傍の丸石に参らうが、祈ること自体が宗教的行為そのものであって、「無宗教の施設」など理論上も便宜上も此の宇宙には存在しない。
何故このやうな簡単で基本的な理解が出来ないのだらうか、そもそもそのことが我輩には理解不能である。靖国がいいのか悪いのか、記念像や抽象的な造形の祈念碑がいいのか悪いのか、はたまた神が良いのか仏が良いのか、さういふことなど極めて些細なことであって、祈りの本質とは殆ど関係ないことだ。文化文明の近代化は政教分離てう幻想の社会構造を生み出したが、嘗てまつりごとが政治そのものであったやうに、人間の日常も祈りによって結構し、魂魄が注入されてはじめて組織構造を持つものなのである。
今天、我輩は唯、黙祷。
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あやかしのややこしのかどはかしはさておき、兎に角暑い。暑いことはさておかうと思ってゐても、心頭滅却しても、暑いものは暑いのだから仕方ない。こんなに暑いにも関はらず、午前中に方々の草引きをしてゐたのだが、熱中症ならずとも「このままこの作業を続けてゐてはいけない」てう本能の呼びかけに従って、小一時間ほどで退散した次第。でも全国では、この暑いのにジョギングをしてゐて倒れてしまったり、農作業の途中に倒れてしまったりする人が何人も居るやうだし、お年寄りの中には室内で寝てゐるだけで脱水症状になって、お亡くなりになる場合もあった様子。尋常ならざる気象環境下には、錆び付いてしまった本能に輝きを戻し、対処する必要が有るのだね。
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今天は朝な夕な、我が手作りの簡易式網戸の隙間から蝉が室内に飛び込んできて、にぎやかしきこと。其の風貌を見るに付け、つくづく、蝉が吸血昆虫でなくて良かったなと思ふ。トンボもさうだな、あのやうな大きな羽を持った昆虫がヒトの生き血を求めて群がって来る情景は、想像したくない。
吸血アブは極めて高速に飛翔する邪悪な昆虫だが、今夕はしきりに我輩にまとはりついて困った。自分に向かって殺虫剤を噴射する勇気もないので、ただ忙しく追い払うだけ。何処でどのやうに羽化してゐるのか、生態は謎のままだ。
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それでも夕刻近づくと、日中の暑さでぐったりと萎れたやうにうなだれてゐたオシロイバナに生気が蘇り、次々に花咲き、独特の甘い香りが庭一面に漂ってくる。古代では此の花は時計代はり。黄昏を待たずに正確に咲き、また其の香りも高貴な為、朝廷に植ゑられてゐたてう記録が有る。
我が覇拿里庭園では、脇のクサギの花の甘い香りと混交相俟って、黄昏頃には独特の微妙空間が出現する。西の山陰に隠れつつある太陽と、花々の放つ香りを感得し、さて、そろそろ岬へ出掛けやうか・・・などと思ふのだ。
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ここ連日深夜にNHKで放送されてゐる番組。作家の五木寛之が、仏教を手掛かりに心の奥底を探り乍ら各国を巡り歩く紀行番組。仏教の死生観や教へ、生老病死や転生輪廻の思想の再認識。静かで、時に雄弁に語る五木氏が、各国のグルに接見し教へを乞ふ態度は大変好感の持てるものだった。印度・韓国・ブータン・シッキムのさまざまな風景。人々や僧侶のかむばせに秘められた思惟や思想。各地の風土によって醸成された仏教思想の奥深さ。
世間虚仮、万事流転の悟空哉
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