齋場御嶽備忘録

至高なる神聖空間

齋場御嶽(せいふぁーうたき)は聖地のなかの聖地。
海上彼方に久高島を望み、ニライカナイをも見通す。海の青さと空の青さは更なる彼方で溶融し、その区別さえ定かではない。唯、白い雲だけが自由に往来し、人の世の願ひを常世に届ける役を担ったかの如く往還し、自由に浮遊する。複雑に侵食された岩の庇から滴り落ち水滴は壺中天に受けられ、天からの若水として聖なる内裏に運ばれて行く。
時に不気味に、時に穏やかに、複雑に侵食された岩盤岸壁の表面を這ふのはガシュマルの太い樹根と、方々に垂れ下がる不気味な気根ばかりであり、此処では何故か不気味な昆虫の気配さへ乏しい。(当然のやうに、アンコール遺跡群のタ・プローム寺院の情景など連想してしまふのも致し方あるまい) どの岸壁も其の根元が浅く深く抉れ、深く浅く庇を為しており、絶妙な岩陰を形成してゐる。嘗てノロ・ユタの祈りはその岩に対して行はれ、方々に置かれた香炉で焚かれた煙と共に深く浅く岩体に含浸し、今なほその霊力の痕跡を残留せしめてゐる。貝化石や二酸化炭素の化石を基盤にした岩盤、地表を覆ひ尽くす熱帯性植物の極めて有機的で艶かしひ交合。聖なる自然性の営み。
とりわけ三庫裏(さんぐーい)の、巨石の織り成す、屹立した直角三角形の洞門は無限の神秘性を放ってゐる。此の世には存在するはずの無い直線的、それも雄大に傾斜して大岩体に凭れ掛かる一枚岩の神秘性は尋常に非ず、まさに目に見へぬはずのカミの存在を空間を以って示すに相応しい状況。洞窟の中にはカミの聖地、即ち久高島から運ばれて来た白い珊瑚の砂が分厚く敷き詰められ、清浄なる空間の聖性を更に高めてゐる。
其の構造は古墳の羨道のやうでもあるが、最奥部、玄室に相当する部分は寧ろ虚ろで狭小な開放空間であり、鏡岩と呼ぶにはいささか脆弱な印象を受ける小岸壁の前こそ、其の左手彼方にカミの降臨漂着せる現地久高島を現実に望むことのできる最高の聖空間だったのだ。
嘗てアマミキョは此処で幻視され、感得され、勧請され、天の意思を人間に告げたのだ。其の余りの生々しき聖性の高さに、震撼することしばし。本来進入を許されるはずもなき男性としての自分が今、何故如何なる理由に拠って此の神聖空間に立ってゐるのかてう謎は永遠に解決される様子は無いが、期せずして首筋に落ちてきた小さな蜘蛛一匹が、我輩を現実の意識世界に引き戻してくれた。
この他にも、寄満(ゆいんち)、大庫裏(うふぐーい)などのいはばいくつかの小岸壁小岩体で囲繞された聖空間が存在し、その方々でさまざまな儀式が執り行はれてゐたのだ。ゆいんちとうふぐーいは同一岩塊の裏表に位置する。寄満とは王府用語で台所を意味し、現実の台所=大膳所から転じ世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちたる所」てう象徴性に転化。実際にもさまざまな供物が此処で供献されたのであらう。ゆいんちはいちばん奥まった部分に位置し、いくつかの岩で囲まれた小空間を形成することから、ありとあらゆる供物が齎されたことが想像される。
一方うふぐーいは御門口(うじょうぐち)から入った(登った)最初の岩壁前に位置する。王府における大広間や一番座という意味が示すやうに、祭壇の手前にも石敷きのうなー(祈りの場)が設けられており、聞得大君(きこえおおきみ)の即位儀礼である御新下り(おあらおり)の参籠時にも大人数での儀式が展開されたのであらう。
東御廻り(あがりうまーい):琉球民族の祖と言はれるあまみきょ族が渡来し、住み着いたと伝へられる知念・玉城の聖地を巡拝する神拝の神事。首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城の各間切を東四間切または東方(あがりかた)てうことから、知念・玉城の拝所巡礼を「東廻り」と称したもの。「今帰仁ぬぶい」と同じく、沖縄中の各門中が拝む風習があった。知念村久高島は麦の発祥地、同じく知念のうふぁかると、玉城村の受水走水(三穂田)は米の発祥地として国王および聞得大君が参詣したことから、沖縄中の各門中も拝むやうになったてう。
齋場御嶽:琉球開闢伝説にも現れる、琉球王国最高の聖地。御嶽の中には六つのいび(神域)があり、中でも大庫裏・寄満・三庫裏はいずれも首里城内にある部屋と同じ名前をもってゐる。国家的な祭事には聖なる白砂を久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷き詰めた。最大の行事は聞得大君の就任式であり、「お新下り」であった。
かつての上り口(入り口)であるうろーかー(禊場)も残ってゐるが、残念乍ら泉は枯れてしまってゐる。しかし、現在でも参拝の対象になってゐる。