断片とその縫合

情報の欠損?欠片?

「情報の共有」とは、そんなに難しいことなのだらうか?
個々の情報の所持者が、同時に発信者たることは可能だ。断片的で刹那的な情報であれば、小集団ならば個々の関係性の熱線を利用してお互ひ伝へればよいのだが、集団が組織化されてしまふと、全ての個人の順列組み合はせでの伝達は不可能に近くなる。
それでは、大多数の構成員が実見可能な掲示板を作ればよいのだらうが、人数が増ゑるほど物理的な制約が影響してくる。そこで、現代電脳社会で活用出来る技術を用ひ、仮想空間に掲示板を設け、個別に接触して情報のやり取りをするてう発案に至るのだが、是にはいくつかの根本的な欠点もある。
即ち、特定の集団の構成員の、果たして何割の人間が本当に情報の共有を必要と感じてゐるのかてうことだ。恣意的な数字を提示しても意味がないのだが、情報を共有する喜びや感興が交感共有できなければ、情報の大半は頓死したと思ふべきであらう。また、強要されて嫌々提出してみたり、形式的かつ機械的に書かれた情報も、あまり意味がないのかもしれない。
 とまれ、情報の共有は関係する者がお互ひに其の必要性を認めてゐるかだうかが重要になる。必要性を感じない情報は半ば無意味で、町の中に無作為に立てられた看板や、駅前で無造作に配られるポケットティッシュのやうなもの。必要とする人がゐて、はじめて看板の意味が発生するワケだし、其処に自らの情報をも投げ入れやうといふ気も発生するてうワケだ。
(−_−)
       
電脳社会になり、ユビキタスはさておき、各自各様の端末でさまざまな情報を得、または発信し乍ら生きてゐる。例へば、web 上には有象無象のほぼ無限の情報霊が浮遊してゐるが、個としての自分が関わることの出来る情報はごくごく限られた範疇のものである。自分の欲する情報を求めて「検索」に明け暮れるうちに、「検索」してゐることそのものに疲れてしまって「検索」をやめて仕舞ふことがある。また、「検索」を続ける課程で、絞り込まれてゐないさまざまな付随項目に魂を奪はれ、目的を達成することなく別世界に移行して仕舞ふこともある。
それでは次に、自分が情報の発信側になる場合はだうだらう。
(未完)