中華への旅

旅する脳髄の見た風景

このところ中国製造品の過激な品質がよく話題になってゐるやうだ。
先の北京石景山游楽園における、各種真似キャラによるけだるいパレードは楽しかったが、土鍋から基準値の数百倍の鉛が検出されたり、ペットフードが動物達を死に至らしめたり、練り歯磨きがぶくぶくと異常に泡立つだの河豚の混入した鮟鱇だの、各分野それぞれが過激過ぎて命懸けだ。
しかし、そもそも大陸中華の地は過激な生々しさをぶつけ合って摩擦と不信を前提に生きる人間の歴史がマントル近くまで染み込んだ大地であって、たまたまその基準が海外諸国の基本的価値観にそぐはなかっただけのことなのだ。
著作権に関して言へば、我々極東人もそのやうな概念自体を持ち合はせていない仲間のはずだが、西洋人達の押しつけと妙な学習効果に因って体得したと勘違ひした結果、こんなものを遵守珍重してしまってゐるのだらう。
大陸を旅して感じる事は、人々の素朴な生活風景にココロ安らぎ心洗はれることしばしばあれど、その裏に潜むものは闘争本能剥き出しのナマの人間の姿なのだ。試されてゐるのは旅人の生存能力であり、狙はれてゐるのは旅人の落とす銭である。旅人が訪れやうとも訪れなくとも景勝地は其処に存在し続けるのだし、少数民族は侵略し続けられるのだし、全ての事象は関係あるやうで関係無いのだらう。
旅は刹那の宿命が劇的に連続する時空なのだし、旅は本来、日常とは乖離した時間なのだ。旅が日常に置き換はってしまへば、それは旅の終焉を意味するはずだ。しかし、芭蕉の謂ひを引くまでもなく、旅を棲処にする日常てう生き方は存在するのであり、このことが生来の旅人に許された唯一の生き方なのかもしれない。
(−_−)
            

         
今天、かなりまとまった雨。ここ三週間、ほぼ7日おきに雨。
昨天の気温29度から一転し、20度前後。何となく肌寒さを感じるのも不思議なこと。