混沌としての日常

摩天楼の屋上の奥の細道

" BABEL " に表現された世界。
閉塞感に満ちた、悲劇の連鎖。コトバの虚しさや、人間の哀しさ、そして何よりも世界の共時性。旅に身を置くことの多い自分にとっては、しばしば実感することだ。
人跡稀な不毛の土地をバスで移動し続ける時。夜行列車の窓に映る自分の顔を通して町の光を眺める時。外国で見知らぬ人々と同じ食卓を囲み聞き慣れぬ言語で会話を交はす時。
主に海外で、移動することが日常そのものである状態が続く時、さう、まさに「旅に棲む」の状況が日常となったとき、ふとした刹那に「嘗ての日常」の一コマがヴィジョンとしてフラッシュバックすることがある。そんな瞬間にこそ、今将に旅の最中に在る境遇を実感し、自ら震撼する。
醍醐味などと言ふ大層なものでもないし、哲学を語る素材でもなく、ましてや他人に誇るべきことでもない。ただただ、淡々とした日常が、別の日常に置き換はっただけのこと・・・
知らないうちに地球上が電絡網で繋がってゐて、人間の知らないうちに新たな神経網が出来上がりつつある此の時代、全ての事象は目に見へない次元で連繋してゐるのだらうし、また同時に無関係に孤絶してゐるのだらう。そんなシナプスを巡る道順は無限に存在するのだらうし、さうである確率は常に100%なのかもしれない。
ロッコとメキシコ、そして東京。此の三箇所を選び結びつけ、切り離しては重ねて行く手法は見事だし、唐突な場面転換も更に次の転換を経ることによって共時性に組み込まれて行く。此の作品では全ての役者が匿名性を強ゐられてしまうが、ブラッド・ピットケイト・ブランシェットでさへ無名の一市民に溶融してしまってゐて、コレもまた監督の技量なのか役者の力量なのかは知らんが、よかった。音楽は時に耳障りな環境音楽のやうだったが、さうか、「ブロークバック・マウンテン」のアルゼンチン人だったのですね。でも、エンディング近く、教授の「美貌の青空」の出現には驚きましたが、映像との一体感はかなりのものだった。
いずれにせよ、題名に込められた含蓄の深さや映像として表現された無常観は、体験しておく価値が有るだらう。
          

バベル-オリジナル・サウンドトラック

バベル-オリジナル・サウンドトラック

          
今天気温は31度以上にも達し、現場工作所は熱地獄。扇風機ぶむぶむ回しても出る汗我慢の数時間。
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