トリニティ

三実一体?!

このごろしきりに三位一体を説く中沢氏だが、やはりトリニティの問題はずっと根源的なものなのだ。
考古学的に例へてみれば、石2個では土器を立たせる事は至難だが、3個用ひればたちまち正立し、其処が煮炊きの場となる。古代中国人の生み出した三足形態の土器や青銅器がその権化だ。とまれ、最低限の数で最大限の効果を得られるものは、普遍的に採用され続けるワケだ。
かつて個人的に激しく追求した冷やし中華でさへ、「麺」と「具」と「タレ」の三位一体コンコルドこそが理想の姿と唱へる三位一体論者が大半であり、天津飯(中国の天津ではみかけなかったが)も「ほっこりごはん」と「ふんわりたまご」と「とろーり餡」の三位一体説が有力であったし、「マトリックス」や「ロード・オブ・ザ・リング」、レスピーギのローマ三部作などなど枚挙にいとまが無いほどぎょうさんの例を列挙出来る。
耶蘇の三位一体説に関してはいろいろややこしくて鬱陶しいのでここでは言及しないが、三尊仏(リクスム・ゴンポ)や三英傑、三原色に三顧之礼、三国志、三弦琴、御三家、三が日、三山(大和三山や蓬莱・瀛州・方丈)などなどなど、とにかく収まりが良い数字だし、最低にして最大の安定を齎すてうこともあって、洋の東西を問はずにさまざまな分野で採用されてゐる。
現実的には白黒紅白、善悪や陰陽の二項対立や二者択一である場合が多いのだが、その本質が不安定さを内包してゐる為、本能的に第三の選択肢を加へて三尊として祀ることをするやうになったのだらうね。
日本人の特色であり大好きな灰色諧調はどっちに属するのかと言へば、それがどっちでもないのだ。黒白陰陽だけでは太極図を引くまでもなく常なる動きや変化を内包してしまうため、その中間に無限諧調を発生させて見かけ上の三位を作り出し、擬似的安定を共同幻視してゐるワケだ。変化を求めぬ者どもにとってこれほど有り難く心地良い領域境地も無いものだから、それに列島てう地理的孤絶性を上手く利用してしっかり育んでしまったワケだ。
でも、大陸人や西洋人と日常的におつきあいを余儀なくされてゐる現代では、日々其処此処でデジタル的に黒白はっきり言明せねばならんことも多いのだよ。「Yes or No ? 」だの「要不要?」「有没有?」だの、我が邦を一歩出るといろいろ即答を求められる機会が多いのでありまして、純粋培養の日本人ほど苦労するのだね。その結果があの意味不明な微笑みとなり、世界の人々に神秘的と誤解されるて現在に至るてう仕組みだ。
ところで商売屋は三代続けば堅気となれるが、近松などを読んでゐると江戸時代以来は三代目が遊興放蕩して潰す事になってゐるやうだ。我輩も商家の三代目であるが、見事なまでに其の轍を踏んで体現権化してゐるし、ひよっとしたらたいしたものかもしれんぞ。
何の話?
    

三位一体モデル TRINITY

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