情緒派

雲、行く

さうですね、此処は確かに「不思議な家」かもしれません。
書く文字や文章がその人を現すやうに、家やその内装(生態)もそこに棲息するヒトそのものになっていくのでせうね。
さりとて勿論生き物ですから、住環境がヒトを変へることも普通にあることでせうが。
ニュートラルと言へば聞こゑは良いですが、良くも悪くも対人的には淡白ですので、時には有り難がられ敬はれ、また時には疎まれ蔑視されます。「淡交」てう含蓄のあるコトバがありますが、それは茶人、即ち風流人同士間でのみ通じるコトバであり、領域外のヒトにとってみれば単に「付き合いの悪いヤツ」てうことになってしまうワケで・・・
近しいヒトの宿曜は見ますが、体質的に完全に対象者と同期して抱へ込んでしまいますので、見た人ばかりでなく、誰の個人データも瞬時に脳内より消去する術を習得しました。自己防衛本能の為せる技に相違ありません。
最近はあまり具体的な例が有りませんが、予兆や予感はほぼ的中します。良い方も悪い方も。もっとも本人にとっては「予感」などてう大袈裟なものではなく、何気ない瞬間にふと思ったことが後にさうなる場合が殆どなのです。但し自分に関する事はまったく感知不能であり、そこらへんはうまく出来てゐるものだと思ひます。
この能力の減退は加齢によるものではなく、それなりに衣食足りてしまったことが主な原因だと考えてゐます。予感は元来本能の領域のものなので、飢餓細胞が飽食に因って麻痺してしまったやうな個体では、第6感の発露する余地は無いてうことなのでせうね。
かういふ人物を「変人」と思ふか「偉人」と感じるか「神秘的」と思ふか「凡人」と感じるか、はたまた「奇特」と信じるかだうかはケースバイケースでせうが、世間様の大多数、すなわちクラスター分析の平均値である「n」値範疇には属していないことは確かなことなので、少数民族としての自覚は(幼少より)大いにあります。
また、対応するヒトによっては会話がいつのまにかセラピーになってしまう場合や限りなく他愛の無い諸事への言及になってしまう場合がありますが、これとて実は自分の意図する処では無いのです。
結果はだうあれ、何故か性的にも中性または両性具有のカテゴリーに分類されてしまうことが多く、その理由は自分ではわからない仕組みになってゐるのです。遺伝子の戦略は強かで、無意識下には緻密な絡繰りが仕掛けられてゐるのです。
内面的な苦しみは思ひつく限り各種一通りほぼ経験して来ましたので、それなりの発言(事実的な裏付けのあるてう意味)はしてゐるつもりですが、自分自身総じて極めて情緒的な人間であると思ってゐるので、わたくしの全ての発言に耳を峙てる必要は無いワケです。
ところでわたくしはさて、いったい誰に何を伝へたかったのでせうか?


情緒と創造