立春大吉

常世の渚

ベートーベンのいくつかの作品が、実は極めて室内楽的背景を持ってゐるのではないかてう疑念は可成り昔から持ち続けてゐたのだ。
ピアノ協奏曲第4番もその筆頭作品だったが、所謂古楽器に因る演奏CDをいくつか聴いても、いまひとつ往時の感興に思ひを馳せることができなかったものだ。しかし、今回遭遇した演奏は初演当時の雰囲気を彷彿とさせるに十分な出来であり、求めてゐた初原の姿に極めて近いものであったことを告白せねばならない。*1
2002年に出版されたシュテーファン・ヴァインツィールの研究書「ベートーベンの協奏曲空間 ー現代に向けて肥大して行く演奏会現場における空間音響学と管弦楽演奏の実態ー」*2古楽器演奏家のみならず、欧州の諸演奏家達に原点に立ち返る重要さを再認識させる意味でも、極めて重要な発表であったと思ふ。
ヴァインツィールの結論に因れば、当時のオーケストラは現在我々が思ひ描くものよりも遥かに規模が小さかったにも拘らず、貴族の私邸のやうな小さな演奏会場では客席が演奏者に極めて近いところにあったため、そこで聴衆にもたらせる音量は会場の大きさに比して非常に大きなものであった。
実際、現存してゐる第3交響曲とピアノ協奏曲第4番の初演会場であるロプコヴィッツ侯爵私邸の音楽室の規模は、奥行き16m、幅7m、天井の高さ7.5mてう空間で、床面積は115平米、床は寄木細工、壁面は石膏塗り、天井は漆喰塗り、演奏者席は24席、客席としては18本の長椅子、満席での残響時間は約1.6秒てうデータが有る。これらの厳然たる事実に鑑み、作曲者自身が自筆スコアに書き込んだ諸指示を加味検討した結果、ロプコヴィッツ邸音楽室に鳴り響いてゐた、論理的且つバランスの良いオーケストラ編成は総勢21名。第1&第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各2(両翼分割配置)、コントラバス1、フルート1(または2)、オーボエクラリネットファゴット、ホルン、トランペット各2、ティンパニ+ピアノ独奏てう内容が導き出されたやうだ。
さて、肝心のCDはasin検索でも出てこないので、詳細をここに記しておかう。

ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番・第5番「皇帝」

アルテュール・スホーンデルヴルト(フォルテピアノ)+アンサンブル・クリストフォリ*3
録音:2004年9月、ユトレヒト、フレーデンビュルフ音楽堂
アルファ・レーベル:ALPHA079,2004,2005*4
蘊蓄や背景はさておき、昨今のマエストーソ、ヴィルティオーソの巨大音響空間作品*5に慣れ親しんだ耳にとって、このやうな「手の届きそうな」距離空間に広がる音場に包み込まれる体験は極めて斬新な経験となるだらう。フォルテピアノの乾いた音、とりわけ低音部に際立つハープシコード風の弦の響きや、ちょっとパタパタしたティンパニの音、セカンドヴァイオリンの音にも埋もれずにしっかり聴こゑるヴィオラの音などなど、5.1chでもヘッドフォンでも楽しめる。願はくば、同様の編成にて残りのピアノ協奏曲と、加へて三重協奏曲も聴いてみたいものだと、つくづく思ふ立春の宵、値千金。

Beethoven: Complete Piano Concertos in Full Score (Music Series)

Beethoven: Complete Piano Concertos in Full Score (Music Series)

*1:勿論、原典原理主義者ではないので大編成オーケストラの演奏もその醍醐味を堪能してゐるのだが、そもそも大編成演奏に因って新たな魅力や発見が有るてうことは、曲そのものに内包された威力が有ることを証明してゐるワケだ

*2:Beethovens Konzertaume - Raumakustik und symphonische Auffuhrungspraxis an der Scwelle zum modernen Konzertwesen 残念乍らウムラウト文字化けの為、省略

*3:1993年、スホーンデルヴルトに因って結成されたフォルテピアノを中心とする阿蘭陀の古楽アンサンブル。団体名はピアノの発明者と考へられてゐる鍵盤制作者バルトロメオ・クリストフォリ(1665~1731)に由来。ピアノトリオから"大規模"オーケストラまで柔軟な編成に対応してゐる

*4:1999年7月に創設されたアンデパンダンなレーベル。現在、"ut pictura musica"(音楽は絵画なり、絵画は音楽なり)、"les chants de la terra"(大地の歌)、"voce humana"(人間の声)の3つのシリーズが進行中。因に本CD、TOWER RECORDS価格は2625円也

*5:2.5秒以上の過剰な残響音も含む