宇宙の演出家

砂粒の中の宇宙、無限のフラクタル

先日初めて訪れた南都十輪院重要文化財であるその石仏龕の風景がなかなか脳裏を離れない。
元興寺旧境内南東に位置し、寺伝に因れば元正天皇(715-724)の勅願寺であるとも、右大臣吉備真備の長男・浅野宿禰魚養の開基とも伝へられてゐる。
十輪院の白眉は言ふまでもなく本堂奥の石仏龕だ。本堂は国宝で、後方の石仏龕を拝む礼堂として建立された。一方、平安中期から鎌倉前期にかけて築かれたてうこの石仏龕、間口2.68m、奥行き2.45m、高さ2.42mの花崗岩製。寺伝では弘仁年間(810-723)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立されたとあり、龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来弥勒菩薩を浮き彫りで配置。仁王、聖観音不動明王、十王、四天王、五輪塔、または観音・勢至菩薩などが地蔵の周囲に巡り配され、極楽往生を願ふ地蔵宇宙を具現化してゐる。龕の前には引導石と呼ばれる平板石が置かれてあるが、その大きさから設置当時は座棺であったことを物語ってゐる。この他にも龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、地蔵宇宙を荘厳してゐる。寺伝や仏像の形態などから、本尊地蔵仏は平安期のもの、それに付随して龕を形成してゐる構造材や彫刻は鎌倉期のものであることが解明されてゐるが、さて、問題はこの石仏龕を誰が仕掛けたのかてうことだ。
勿論南都には華厳経はじめ、種々の経典を奉ずる各宗派の学僧や留学僧たちが犇めいてゐたはずだが、一つの仏龕にこれほど多様な宇宙観を凝縮し、構造物として具現化させる為には、よほど傑出した演出家が必要だったことであらう。彼は歴史書にも寺伝にも、決してその名を残すことの無かった一学僧かもしれず、はたまた大陸や半島から経典を携へて招来された留学僧かもしれないし、名を秘匿した空海だったのかもしれない。ここに凝縮された宇宙観は、ともすれば古墳時代にまで遡上可能な構造と理念を包含しており、極めて興味深いのだ。
演出家が宇宙観を構築し、人民はその天蓋の下で神仏に伏し拝む。世代を重ねるうちに時間と重力と情緒の複合作用が相俟って、宇宙観は個々の遺伝子に還元され、再び天空虚空に収斂されて行く。この無限の繰り返しが地上を這ふ者たちの宇宙を構築し、人間のあらゆる行為行動の背景輻射として浸透して行く・・・
(-_-)考へ過ぎ?!

南都年中行事

いつものことさね・・・