嗤ふ茶葉

茶葉、偉大なり

伊右衛門が何者かは知らんが、京都・福寿園の創業者であるらしい。
ペットボトル入りのお茶など自ら買う事は、月に何度も有るワケではないが、気が付けば烏龍茶も緑茶もサントリーのことが多いやもしれぬのこと。最近は出先の差し入れで伊右衛門緑茶を飲む機会が続き、独特の芳醇な風味に感心したりしてみたりしてゐたりしてみたのだが、ペットボトルと同じ体裁デザインで茶葉も売られてゐることは知らなかった。よく考へてみれば、京都・福寿園はお茶の葉を商ってゐるのだから、こちらが本来の姿であり、何者かが淹れてプラスチックボトルに詰め込んだお茶を無防備に飲んでゐる状況の方が奇妙なのかもしれない。
とまれ、「伊右衛門」は石臼引きの抹茶と香ばしい煎茶を混合した抹茶入り煎茶であり、指示通り適温90度のお湯を注ぎ浸出時間約60秒、色鮮やかな緑茶が出来上がり。一口飲んでみると・・・確かにおいしかった。
(-_-)満意哉
但しお茶に使ふ水との相性も有るだらうけどね・・・
茶葉の偉大なるところは、同じ一芯二葉がオレンジ・ペコにも烏龍茶にも煎茶にも焙じ茶にも変化するところだが、風土に根ざしたそんな多様な加工法を編み出した照葉樹林帯の人々も偉大であるなーなどと思ひ乍らも、更にまう一服の抹茶入り煎茶「伊右衛門」啜る宵なりき。
(-_-)更にまう一服
今天の屋外工作は多忙を極め、情報も錯綜し各種の指示や解釈も浮きつ沈みつ。かつて大地を穿った人々の痕跡を、手探りで追求する。目前に展開する無機質な土層の堆積に、如何なる光景を幻視するのか。「幻視力」とでも呼ぶべき能力が学問的直観と融合を果たした時、過去の歴史は現在進行形として眼前に発現する。但し、その感興や情緒を人々に伝へる為には、直観とは別世界の言語表現能力と、その敷衍普及の為の技術的背景が必要となる。
(-_-)果たして、古代の神や言霊は既に死んでしまったのか?


嗤う伊右衛門 (角川文庫)