Mein Kampf

神々の黄昏

"Der Untergang"*1こと"DOWNFALL"即ち「ヒトラー 〜最後の12日間〜」は、ベルント・アイヒンガー*2のプロデュースによるCONSTANTIN FILM*3配給の作品。監督は、1957年ハンブルグ生まれのオリヴァー・ヒルシュピーゲル
殆ど何の予備情報も知らぬまま、観た。ブルーノ・ガンツヒトラーを演じてゐることも、見始めて暫く経ってやっと気付ゐたほど。ドイツに於ける長年のタブーを破り、製作された作品だ。ベルリンの総統官邸地下要塞が舞台てうこともあり、重苦しく、息苦しささへ感じさせる映像が続く。最後まで秘書であったトラウドゥル・ユンゲの体験・目撃したヒトラーの一挙一動、死に至る過程の一部始終をもとにして作られており、単に戦争映画としての分類は不可能であり、無意味である。
評論家の川本三郎氏の語る如く、「この映画のヒトラーは、狂信的な独裁者というよりも、敗北と死を前にした気の弱い老人であり、それゆえに困ったことに人間的に見えてしまう」ことを、どのやうに受け止めるべきか。 我々は既に歴史的客観的事実として、独裁者として彼の為した恐ろしい事件の数々を知ってゐるし、どれだけ誇張されて真似されても、記録された本人の言動を越ゑるものは無いほど特異な個性のイメージも、強く脳内に蒸着されてゐる。灯台もと暗しの例へ通り、余りに側近故に「怪物の正体を知らなかった」秘書ユンゲ。彼女の視点で描かれた細部描写が多ければ多いだけ、ヒトラー人間性や悲劇性がより強調されてしまうワケだ。生々しい姿の「人間」として描く余り、結果的に彼の本質や罪を覆ひ隠しているのではないかてう疑念に於て、ヴィム・ヴェンダースは批判してゐるのだ。かつてのベルリンの天使は堕天使となり、今や狂信的独裁者に成り果ててしまってゐるのだから、皮肉なことだ。それも同じベルリンの地で・・・
Martin-Gropius-Bauに隣接したGehime Staaspolizeiamt*4 跡地や、結婚の翌日にヒトラーエヴァ・ブラウンがピストル自殺した地下要塞の廃墟を訪れたのは1988年の夏。あの地下世界で、このやうなことが起こってゐたのだなと、帰宅後改めてアルバムを眺めてみる。サンチマンタリズムの再燃だ。勿論至る所に所謂「壁」が写ってゐるが、破壊されたまま保存されてゐるKurfurstendamm の Kaiser-Wilhelm-Gedachtniskirche や Anhalter Bahnhof などの亡霊のやうな姿が、未だに脳裏に浮かぶ。
映画の最後に、年老ひたトラウドゥル・ユンゲが自己批判し、懺悔告白する様子が出てくる。冒頭で「怪物の正体を知らなかった自分を、今でも許せない」と語った彼女だが、「若さは無知の言ひ訳にはならない」とさへ言ふのだ。確かに、「若さ」はあらゆる分野のエクスキューズには一見有利に働くと思はれがちだが、若さと無知はその本質に於て無関係だ。また、このやうな悔恨と懺悔が罪の軽減に作用したとすれば、法律の限界は正にその部分だ。しかし、ユンゲは実際には何一つ、法的には罪を問はれていないのだ。

私はヒトラーの秘書だった ヒトラー 最期の12日間 Mein Kampf

*1:没落、破滅

*2:ウォルフガング・ペーターゼン監督:「ネバーエンディング・ストーリー」、ウーリッヒ・エーデル監督:「クリスチーネ・F」「ブルックリン最終出口」、ジャン・ジャック・アノー監督:「薔薇の名前」、ビレ・アウグスト監督:「愛と精霊の家」や、「名もなきアフリカの地で」「バイオハザード」なども製作

*3:http://www.constantin-film.de/

*4:略称 Gestapo = ゲシュタポ