生脳の蠢き

汝は誰そ?

当然のやうに、毎天電脳と向かひ合ってゐる。
例へばかうして日記のやうなものを書いてゐる時、我が旧式iMac「華力」号は同時にBGMとしてバッハのパルティータを流し、メールチェックをし、ブラウザを活動させてゐるのだ。これでさへ、電脳本体の持てる能力の数割の活用に過ぎないのだらう。電脳がかうなら、生脳はだうか。BGMを聴きながら、音の消されたテレビ画面を脇目に、電脳に文章を入力しつつも火鉢の上の鉄瓶の按配を気にしつつも・・・せいぜいそれくらいかしらむ? それでも生脳本来の持てる能力の数割以下しか活用されていないのだらう。果たしてどれくらいの人が、死に身罷るまでに生脳の全ての機能を使ひこなせるのだらう? 排気量に余裕の無い車は緊急回避に支障をきたすものだが、使はれるあての無い脳の余裕は有った方が良いやうな、無くても良いやうな・・・
でも一生のうちに使ひ切れる機能は限られてゐることだらうから、さて今からたっぷり使ふぞよ、と鼻息を粗くしても、老化によって肝心の脳細胞自身がどんどん減少し続けてしまったり、残された時間が不足してしまったりすることもあるワケで、生脳内で思ひ描くほど、物事はうまく運ばないものなのだ。
燃へる夕焼け空を見て、なぜか女子十二楽坊を思ひ出し、新しいアルバム「敦煌」が欲しいな、などと思ひにけり。これもまた、生脳の欲するところなりけり。
敦煌 (DVD付)