この餅を見よ!

美しき海苔の束、黒髪の如き艶

餅が偉人の好物であることは、今更言ふまでもあるまい。
どのやうに餅を食すかてうことは、非常に重要なことである。先づ、餅の形状に諸説諸型式諸形状あることは承知のこと、列島各地における各形状の民俗学的かつ文化人類学的分布状況やら、つまり丸でも角でも、正月期間中に全国で何人が餅をノドに詰まらせて死んだかてうことなどなど、何でもどちらでも宜しい。近頃は四角いのや丸いのが個別に包装され、便利のやうな不便のやうなわけのわからんことになってゐるが、昔は餅と言へばつきたてを丸めつつ、あんこやきなこをまぶしてそのまま食べてみたり、平たく熨したものを四角く切り分けてみたりしたものだ。暮れにいただいたものはつきたてを熨し専用に開発されたプラスチック袋に入れて平たくしたもので、自ら切り分ける必要があるものなのだ。そもそも俎の如き大きな板状のものを水平に置きて切り分けることは至難の業であり、包丁の背がたなごころに食ひ込んで痛いばかりだらう。その主要なる原因は、包丁の刃の渡りに比して餅が長大なる事であり、2度3度と包丁を継ぎ渡して何列も碁盤に切ることは、難しひのだ。その問題を解決する為に編み出されたのが、俗に「養老の滝落とし」と呼ばれて恐れられてゐる切り方である。即ち、畳の上に立て膝になり、俎を我が身に立てかける如くに餅を直立させて、包丁を上辺から下辺に向かって切り下ろすワケだ。上半身の体重を掛けることが出来るので、硬い餅でもかなり容易に切ることができるものの、3年の修行を経ない者が切れば忽ち帯状の餅がぐにゃりと曲がり、見苦しき「あってはならない」形状の餅が出来上がることになる。そのやうな妙竹林な形をしてゐても、餅は餅屋の紺袴、味は同じではないかと辻で説く上人も居ることだらうが、4直角であるに越したことはなからう。どやさ?!
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次の問題は、煮て喰ふか焼いて喰ふかてうことだ。世の中には煮ても焼いても喰へないものも多々有るが、餅はどっちでも喰へる。雑煮に投入するにせよ、予め炙ってから煮込む輩も居るてうことだが、それが我輩である。我輩の場合、雑煮のお供は白菜でも菠薐草でもなく、ましてや蒲鉾でも鶏肉でもなく、小松菜か餅菜であるべきである主義者であるものの、だからといって常日頃日常茶飯事として雑煮でしか餅を喰っていないと思ふのは、大間違ひである。基本的には餅は焼き餅であり、それも磯辺巻きであることが大いに望ましいワケだ。オーブンでもストーブでもレンジでも七輪でも加熱環境は何でも宜しいものの、焼き膨らみたりける後は可能で有れば醤油を付けて再度焼く。香ばしくせうゆの焦げたりけるを待ち、焼き海苔を巻いて、ちょこっと砂糖を付けて喰ふが頗る宜しい。以前には砂糖を付けるなど邪道であると、激しく非難されたことも有ることを、ここに告白しておかう。(そもそも、かういふ指摘はいらんことである) しかしだ、よく考へて見給へ。粒あんの甘さを引き立てるのが一つまみの塩であるが如く、醤油の塩味や旨みを引き立てるのが、ちょこっとの砂糖なのである。かやうな微妙なる味の工夫を否定する者こそ味覚党的原始人であり、厳しく反省すべきであり、直ちに自己批判をして叡山に出家すべきである。
兎に角、餅は誰が食っても餅である以上、焼き餅がもっと珍重されるべきであり、排他的な雑煮主義者や過激な神秘主義者は直ちに特製免罪符を購入し、補陀落渡海を覚悟して、焼き餅又は磯辺巻きを喰ひしのち、華厳の滝より捨身飼虎いたし、山に登りて嗤へ!
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ところで、餅は餅屋? 石は石屋? 土器は土器屋? 玉は玉屋? 
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やるまいぞやるまいぞ・・・