父二題

父性の表皮

砂と霧の家」;自己完結するはずの個々の秩序が、何かの弾みで絡み合ひ、縺れ、お互ひが切れるまで引かれ続ける。運命の糸を操る者は神でも偶然でもなく、淡々とした必然なのだ。栄光の過去にのみ生きる拠り所を求め、意固地にまでに刹那を過去に捧げ続けた代償が、悲劇的終末だ。さりげなく描かれたアメリカの本質と父性の悲しさが、余りにも現実的で有るが為、本来非日常であるはずの劇場空間が、ありふれた日常を傍観する為の装置に変容する。観客は第三者であり隣人であり目撃者であり続けることを最後まで余儀なくされるわけで、悲劇である割には醒めたままで居ることも可能だ。霧に沈む町がアメリカの象徴なら、砂は砂漠でありイランの象徴? それとも、両者共に儚きものの譬へ? 原作に秘められた譬へまで理解することは不可能だったが、恐らくベン・キングスレー演じる亡命イラン人少佐とは、親米パーレビ国王政権への奉職者であったことを暗示するし、誇り高き「蛮族」達のアメリカに於ける社会的地位が極端に象徴的に表現されてゐた。過剰な誇りと父性と自己防衛本能によって全ての価値と秩序と夢と希望が崩壊していく過程を、大変良く表現してゐた。母性は全てを内部に包み込むが、父性は常に距離感で成り立ってゐるのだ。
血と骨」;鬼畜の如き父性の故事。父性が絶対的な存在である朝鮮民族であるが故の悲劇。一衣帯水の半島と列島の心理的葛藤や、侵略と支配の悲劇的関係が或る個人に極端に凝縮され発現する。そんな狂気の父性に翻弄され、犯され、侵され、破滅的な終局にしか収斂できない人間関係。血と骨は父と母より受け継ぐものだが、欲望の住処である肉は血と骨によってのみ支へられ、動かされるものだ。肉欲を突き動かすものが血であるのか骨であるのかは知らないが、鬼と化した父性を凌駕し駆逐するものは、力しかない。たけしは出来すぎでずるいな。濱田マリが開き直ると凄いな。鈴木京香も。オダギリジョーのチンピラはハンサム過ぎるけどお似合ひだな。
我輩が父性に帰属することは無いだらうが、鬼畜の父性の血と骨を受け継ひでゐることだけは確かなこと。やはり一番恐ろしひのは己の血。狂気の血脈。
(-_-)南無