大ハーンの夢

単位はトゥグルク

三河地方と書くと日本では愛知県てうことになるが、大陸にも有るのだ。オルコン、トラ、セレンガ河の合流する肥沃な土地が、大蒙古の草原にある。此の地を制することは草原の覇者になることを意味してゐるので、いずれの部族も狙ってゐたのだ。歴史上此の地に名を残したのは、西方の勢力が多かった。柔然、鉄勒、突厥ウイグルなどなど、いずれもアルタイ山脈方面から出現した部族だ。
そんな西高東低の情勢にも変化が現れ、旧態を破ったのが契丹であり、女真族だ。その東方優勢の流れの延長線上に、テムジンこと後のチンギス・ハーン出自のモンゴル部もあったのだ。
中原は東方紅、草原は東方蒼・・・
チンギス・ハーンの霊廟遺跡が発見されたとのこと。テムジンの生年は諸説有るが、通説では1162年とされてゐる。我が邦は平安時代末期、保元平治の乱直後の混乱期であった。1206年にはクリルタイ大会議に於いて全モンゴルの主権者に推戴され、チンギス・ハーンてう尊称を贈られる。45歳のこと。彼の没年は征服した西夏とともに1227年、六盤山山麓で急死と言われてゐる。言い伝えでは彼の遺骸は故郷のオノン川の源、ケルレン川・トラ川の分水嶺であるブルハン山に運んで葬られたてうが、その埋葬地を後世に知らせぬ為葬式の列に遭遇した者は悉く殺し、埋葬した上を騎馬隊が往復して踏み固め、墓石も標識も立てずに引き上げたとのこと。もとより地上にその存在の痕跡を殆ど残さない遊牧民のこと、カラコルムの巨大な天幕でさへも石組みや竪穴などの遺構が明瞭に残るわけでもないのだ。溢れる如きモノ持ち三昧の我々からしてみれば、羨ましささへ覚ゆ生活形態だが、考古学者の夢や学問的野望はさておき、テムジンの墓は無理に探さなくともよいと思ふ。
歴史世界には人生宇宙同様、できるだけ多くの謎や手付かずの遺跡を残しておいて欲しいのだ。未来にもし考古学てう学問が存在してゐるならば、未来の考古学者には可能な限りの謎を提供しやうではないか。それが出来るのは、我々しか居ないてうワケだ。
賛同して頂けます、この意見に? どうよ?!