七月十六日

美しひ黄昏は誰のもの?

二百十日十六夜月。
狂風,強風も明け方までにはウソのやうに去り、雲間から刺すやうな陽光。台風の持ち込んだ南海洋の湿気に満ちた大気が沈殿し、すぐに汗ばむ。さすがに夕方からは虫の声が高く、秋の風情は知らぬ間に庭に満ちてゐる。無限に続くやうに思はれた狂気の夏も、いつしか目に見えぬところで秋に移行しつつあるのだ。いにしへの歌詠み人は風の音にぞ驚かされ、虫の声を憐れみ、雲の行く先に思ひを馳せ、天の高まり行く様を感じ取ってゐた。季節感が希薄になりつつあるてうことは、確かなことだ。今年の夏は寧ろ例外的だらうが、夏が夏らしくない年も多いし、暖冬傾向も強い。我輩の幼少時、夏休みには毎日夕立があったし、冬には雪が積もる日が何日もあった。トマトの木に近づいただけで青臭い臭いがしたし、夜はもっと暗かった。ほんの数十年のうちに、明らかに大気圏環境のどこかが変化してしまったのだ。
そもそも地球がガイア生命体であれなかれ、大自然は人間様に何ら関心無いワケで、人類の隆盛など宇宙時間の刹那のことなれば、取るに足らないことなのだ。おこがましくも人間様が「地球にやさしい」だの「環境にやさしい」だの、さういふ表現を用いてどうかう言ふこと自体が尊大である。この種の偽善的な「やさしさ」の正体は人間社会の存続が目的であり、地球上の全ての生命が常に果てしなき闘争と生存競争と淘汰の波に晒されてゐるてう事実が置き去りにされてゐる。
夏の終はりの戯れ言にて候。