曼陀羅故事

ほとけもはじめはひとならむ

先日のネパール的話題の延長線上で、部屋に掲げてあるマンダラをつぶさに眺めてゐると、いろいろな感情や感慨や思い出や謎や疑問が次々に湧き上がってきて、不思議な感興を覚える。
実はこの小さなマンダラはネパールで購入したものではなく、香港で入手したものだ。それではなぜネパールが関係してゐるのかと言へば、ストリートマーケットの片隅でネパール人が売っていたものだからだ。それは有名なテンプル・ストリート(廟街=みうがい)の一番はずれの薄暗い路上で、一目で無許可販売だとわかるありさまだった。事実彼は常に周囲に視線を遣り、落ち着きのなさそうな状態だったが、なぜかカタコトの日本語を喋り、日本人には異常なまでに友好的で激しい値引きをしてくれるのだった。聞けば観光ビザで香港に来て、1ヶ月間路上販売をして帰るという繰り返しを、まう3年以上続けてゐるとのことで、昨年或る日本人にいろいろ世話になったと言ふのだ。カタコトの日本語はカトマンズの土産物屋で働くうちに覚えたらしい。元締めはグルカ兵崩れのネパール人で、商品の補充を兼ねて10人ほどの若者をカトマンズと往復させてゐるらしく、民族衣装やアクセサリー、マンダラや仏具などを運んでゐるてうことだ。細かく見れば如何にもお土産用の稚拙なマンダラなのだが、手描きでマンダラの法則に則って描かれてゐるし、それなりの時間がかかってゐることは間違いない。由来を尋ねると、カトマンズ郊外のパタンのマンダラ工房で、見習いに入った若者が練習も兼ねて描いたものであるてうこと。構図などは師匠の作品をほぼ忠実に模してゐるので、そんなにいいかげんなものではないとのことだ。そんな数奇な運命を辿ったマンダラは、薄汚れた香港の路上で引き取り手を待ち続け、東洋の島国に落ち着いたのだ。そしてそのマンダラを、その部屋を訪れた別のネパール人が眺め、付着した故事とともに祖国に持ち帰る・・・ ここにも微少な螺旋状の円環が形作られやうとしてゐるのだ。