我が庵は・・・

とってもジューシー!

時節を問はず、何かにつけて開く本、てうものがある。中原中也の詩集はその筆頭であり、詩に限れば朔太郎はそれに次ぐ。なかでもとりわけこの詩の本質は、二十歳の頃から我がものと大層相通じるものがあるが、この意を単なる被害妄想や精神病的階層に矮小化しない為にも、事ある毎にみずからの言霊にせむと朗読しているのも事実である。

   つみびとの歌(阿部六郎に)
 わが生は、下手な植木師らに
 あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
 由来わが血の大方は
 頭にのぼり、煮え返り、滾り泡立つ。

 おちつきがなく、あせり心地に、
 つねに外界に索(もと)めんとする。
 その行ひは愚かで、
 その考へは分かち難い。

 かくてこのあはれなる木は、
 粗硬な樹皮を、空と風とに、
 心はたえず、追惜のおもひに沈み、

 懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
 人にむかっては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
 われにもない、愚事のかぎりを仕出来してしまふ。

さておき、先日の英国式で言及した漱石の「薤露行」を紐解くうちに、謎の作品である「趣味の遺伝」に辿り着いた。短編集の片隅に人知れずしまわれておかれがちな作品だが、その原因は冒頭句かもしれない。
 <陽気のせいで神も気違になる。「人を屠りて飢えたる犬を救え」と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を動かして満州の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた。>云々
 これでは現代の名作から排除されても仕方ないかもしれないが、漱石の狂気は作品の本質と心理の底で深く関わっているだけに、看過できない作品である。それ以上でもそれ以下でもない究極の冒頭は「草枕」<知に働けば角が立つ。云々>だが、個人的には「道草」の冒頭に非常な魅力を覚える。
 <健三が遠い所から返って来て駒込の奥に所帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだらう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さへ感じた。彼の身体には新しく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着してゐた。彼はそれを忌んだ。一日も早く其臭を振り落とさなければならないと思った。さうして其臭のうちに潜んでゐる彼の誇りと満足には却って気が付かなかった。彼は斯うした気分を持った人に有勝な落ち着きのない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二返づつ規則のやうに往来した。>
この数行には英国から半狂人で帰国した漱石の、自分に対する不気味なまでの冷静な分析と心理の吐露が込められている。つくづく凄い文章だ、と思ふのだが、かういふこむづかしひことはさておき、せっかく頂戴した純系メロンですもの、ゆっくり味わって半玉、いただくことにします。残りの半分は・・・南方系のデセールとして新奇工夫してみやうかなー、などと考えております。ハイ(-_-)