KING ARTHUR

歯痛王?

Quo Vadis? という問いは日常的に我輩に投げかけられているものではあるが、同時にアーサー王に対しても為されるべき問いかけの筆頭である。大ブリテン島の各地に湧出した泉の水が、緑の大地やヒースの荒野を流れ、時に合流し時に伏流し、やがてはアヴァロンの聖なる頂の神秘の湖に辿り着くように、何十幾百もの故事と伝説と寓話が複雑に紡ぎ出された一角獣柄のタピストリーに収斂され、静謐の神殿の壁を修飾する。例えそれが百の物語の集合体であれ、奥底に流れる本幹は個人意識の結構であり、血脈の遍歴であり、ミトコンドリアの継承である。
始まりのあるものは、終わる。しかしアーサーという人格は強力な磁性体であり、無関係な伏流水までも吸着させ、あたかも本流の如き風体を呈するまでに到った。ケルトの精神や聖杯伝説までも取り込み、骨太な英雄伝説のふりをしながら、時に老獪な人格を装い人々を魅了する。したたかでありかつ、かくも魅力的である。極西の島国の伝説王が、何故に極東の島国の偉人を魅惑するのかは謎であるが、かの漱石大人も『薤露行』なる作品で、サー・トマス・マロリーが著した『アーサー王の死』やテニソンの詩『ランスロットとエレーン』などにイメージの源泉を求め、神経衰弱的ヴィジョンに筆を任せて幻想を紡ぎ出している。
  うつせみの世を、
  うつつに住めば、
  住みうからまし、
  むかしも今も。
Quo Vadis?
Festina lente.  Fortes fortuna juvat.
緑の丘に秘められた血生臭い歴史の堆積や、その土地の背負ってしまった時間の濃淡に思いを馳せる。それにしてもこの種の歴史的な戦いを画面に再現することの難しさは、言うまでもない。「ロード・オブ・ザ・リング」を見てしまった人にアピールしようとすればそれなりの作り込みが必要だし、CGを使わない手法なら無限式人海戦術、中国の独壇場である。今回のサクソン人とのバトルは、数で圧倒しつつも、その迫力や演技の濃淡でかなり迫力有る戦闘を演出しており、手に汗握ることしばしばあった。全編を通して魔法使いも魔法の剣も怪物も宇宙人も出てこないが、でもどうしても背中に剣を差した騎士たちが馬で駆けてくる情景は、「ラスト・サムライ」的というか日本的というか、何かそういうもののかけらを感じる。主演のクライヴ・オーウェンは「すべては愛のために」の時のいやらしさは姿を消し、誠実な演技に徹していて好感が持てた。キーラ・ナイトレイは確かに美人だけど。ちょっと線が細すぎるかな。ランスロット役のヨアン・グリフィズはじめ、大好きな英国人役者がずらりで、大変宜しい。サクソン人の親分にスエーデン人とドイツ人の役者を配したことも、宜しい。監督と製作者はメリケン人であるが、そういう環境下で上質な演技をみせた英国人たちに拍手を贈ろうではないか。
何が言いたいのかって? 要するに「キング・アーサー」という映画を観てきたのだよ、といふことが言いたかっただけのことなのですが何か?
(-_-)