いろいろな意味

何見て笑う?

遺跡から出土するさまざまな文物。たとえばそれが矢尻であったとすれば、それは矢の先に装着して相手を射て、傷つけ倒すことが目的であろうから、その為の機能が最優先されるはずであろう。
しかし、鋭く精巧に造り出された刃部は自ずから美しい造形を呈し、機能を超越した結構を我々に見せつけるものだ。
たとえば縄文土器の表面に付けられた文様はどうだろう。そこに具象表現を読みとることのできるものも多いが、心象表現や想像世界の表現、又は寓話や神話世界の表現ではないかと思わせるものも、中にはあるのだ。
施文した縄文人の心象が、いったいどれほど現代人である我々に伝わるものかは推し量る基準さえ無いが、意味を求めることを止めた瞬間、感得できる「意味」もある。それは古代人であろうが現代人であろうが関係なく、人間の本能や官能の領域に抵触する事象の表現であったり、生命体の根本にかかわる故事の表現である場合に多い。
道を指さして「道」と言えば、たちまちその道は消滅してしまうものだし、空を指さして「青」と言えば、たちまち黄や白は無いのかということになる。友人を指さして名前を呼べば、果たしてその名前がどれほど本人を言い表しているのかという問題が出現する。
ここまでくればすでに問題の所在は老子荘子の世界に侵入してしまっているので、朝飯前に片づけるワケには行かないのだ。