2008-01-30から1日間の記事一覧

タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と

既に生ひ立ちや幼少時の激しい動きが象徴してゐるやうに、生まれながらのエグザイルであり、逃避者であり、故郷喪失者であったのだ。絶望したはずのタヒチに戻らざるを得なかったその行き詰まるやうな精神的状態は、察するに余りある。南洋の楽園に於ける貧…

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失っ

此処で唐突に、「西洋文明に絶望」したとあるが、彼にとっての西洋文明とはどんなものだったのだらう? 植民地としてのタヒチの様子は、恐らくかなり其の原始的で素朴な生活様式が強調されて本国に伝へられてゐただらうし、何よりも剥き出しになった放射性物…

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完

此の頃の画家達の紐帯はどの程度形成されてゐたのか、我輩は知らん。ポン=タヴェンでのたった数年間に、画家達の独自の情報網から、アルルに滞在中のゴッホのことを知ったのだらう。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

元服の頃には既に航海士であったし、海軍に属して戦争にも参加したと思へば、証券会社の社員となり北欧女と結婚。この時点でやうやう、人生の初の心の寄港地を見つけたのだらうか。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

ものごころつくもつかぬも、赤ん坊の時からペルーに連れて行かれてゐたわけで、父親の顔も知らぬままにフランスへの帰国。安定した精神的基礎の構築される環境にはなかっと言はざるをえない。

流浪の人

常々、ポール・ゴーギャンの作品に得体の知れぬ不気味さや、ただならぬ原始的な蠢きを感じてゐたのだが、今回オルセーで撮影してきた何枚かの画像(油絵よりも木彫が多かった)を眺めるうちに、人間の本能の領域に抵触するさまざまな問題を見出すに至った。 …