はだめはだしめほとけさま

甚目寺(じもくじ)の話

 
推古天皇5年(597年)、伊勢国の漁師である甚目龍磨(甚目龍麻呂)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音様が網にかかり、その観音像を近くの砂浜にお堂をたてお祀りしたのが最初という。この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来善光寺勢至菩薩安楽寺太宰府天満宮)にあるという。龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、これは、「波陀米泥良」と書いた。「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。
 

伊勢國は伊勢灣を介した隣國であるので、灣央部ではなく木曽三川河口周邊の複雑な流路や汽水域での往来を得意とした漁師が往時の海部郡沿岸を往来してゐても何ら不思議は無い。
漁師の網に佛像がかかる話は日本各地にあって、例へば淺草寺の縁起は以下の如し。

 
時は飛鳥時代推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
 

こちらも推古朝のこととされてゐるが、何故此の時期に伝承が固定されたのだらう。佛教の傳來は欽明朝のことだから、1世紀範囲の出来事だ。
また、石川県の愛染寺の地蔵菩薩像は「柴山潟の湖底から漁師の網にかかり引き上げられた仏さまで、湖底からこの世に出たと云うことで出世地蔵と名付けられた」とあるし、南知多町日間賀島安楽寺の寺伝には「その昔、となりの島が陥没して寺が流され、 その後その寺の仏像が漁師の網にかかり、仏像を守るようにタコがからみついていた。 それからこの如来像をタコ阿弥陀と呼ぶようになった」などとある。
親鸞聖人正明傳』にも類似した逸話が有って、

 
聖人はある年の夏の初めに、常睦国・霞ヶ浦の浜辺近くに往くことがありました。
 あたりの漁民が「近頃、海上にたいへん光るものがあります。そのせいか魚もこの浦に近寄ってきません。 いったいどういう凶事なのでしょうか」と言うので聖人は不審に思って、ある日汀に行って眺めていると、 光るものが漁師の網と一緒に近づいてきました。聖人はおおいに喜んで、不思議な縁を感じ取って、 衣に包んで稲田の草庵にお持ち帰りになりました。聖人が駿河の国の阿部川を渡ったとき、奇瑞を現した仏様がこの仏像でした。
 

これなども海中出現類型の一例と考へてよいだらう。
とまれ、往時海邊にあった此の古刹境内からは白鳳期の古瓦が發掘されており、巨大な塔心礎も境内にある。少なくとも7世紀後半には、當地に佛堂伽藍が営まれてゐたことは確かなやうだ。
神妙なる御縁起はさておき、今天は極めて寒く、断続的に吹雪になるやうな有り様。小雪舞ふ午後遅く、正月三日の夕刻近くには境内の出店も生氣無く、境内の焚き火も既に燠火ばかりで火焔は見えず、ただ朱塗り鮮やかなる本堂内陣の護摩壇に灯された和蝋燭の灯火が見るだに心安らぐ暖かい光明を放ってゐるばかりであった。
ちなみに甚目寺の年中行事の多くは旧暦に基づき執り行はれており、大変宜しい。例へば「天下泰平修正會」は旧正月元旦より七日間、天照大神はじめ八百萬神の御名が記された神明帳を読み上げ、国家安泰、佛法興隆を祈願する。また「観音池供」は旧正月三日、甚目寺本尊出現地、観音池の觀音堂へお参りする。
なお、弘安6年(1283)、甚目寺を訪れた遊行上人一遍は、毘沙門天の加護により、七ケ日の行法を完遂したと言ふ。
ふむふむ、繙くだに重厚な歴史に彩られた興味深い寺であるぞな。境内を共有する式内社漆部(ぬりべ)神社の存在も気になるし。
  

甚目寺真言宗智山派の寺院。内陣の荘厳荘重にして重厚なれど、本堂そのものは平成四年に新築された鉄筋コンクリート造りで残念な建築物。矢張り鉄筋製の大須観音と似た印象がある。
 

和蝋燭の暖かな炎
 

 
 

六角堂内部
 

十王堂内部
 

漆部神社境内
 

 
 

 
 

 
 

三重塔:重要文化財、高さ28mで三重塔としては日本有数の高さを誇る。寛永四年(1623)の建築。
 

 
 

 
 

白鳳期のものとされる塔心礎がこのやうなところに!
 

 
 

 
 

 
 

 
 

南大門:重要文化財、建久七年(1196)再建。仁王門ともいい、安置されている仁王(金剛力士)像は1597年(慶長2年)福島正則の寄進によるものと判明。
 

こちらは五条川の岸辺に鎮座する萱津神社、漬物を納める「香物殿」。
 

 
 

 
 

彼岸の彼方には大名古屋驛が