三界萬霊盆棚三昧即身成仏大往生


 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 
そしてこちらが隣田寺への供物類

 
 

 
 
※参考画像資料
 

 

 

        
門火(かどび)(迎へ火):13日の夕方または夜、門口でオガラや松明(たいまつ)などを焚く。茄子やキュウリなどで作ったの牛馬など、おしょろいさん(精霊さま)の乗り物を拵ゑる場合もある。また、「ジイさまバアさま、この明リでおいでやれ」などと唱へることもある。
          
精霊(しょうりょう)送り(送り火:多くは15日か16日で、川原でオガラをたいたり、送り舟といって、舟を供物(くもつ)とともに、川や海に流すところもある。迎えるとき同様「盆の仏さま、これについていにやあれ」などと唱へて送ることもある。
           
盆棚(ぼんだな)(精霊棚):供養のためにお迎えした仏さまを迎へるため盆棚や魂棚(たまだな)、先祖棚と呼ばれる位牌を安置し、供え物を飾る特製の棚を設けて迎へる。棚をつくらないところでは、特にお仏壇を整えてお迎へする。ここで僧侶が供養するのが棚経。盆棚を設ける日は、たいてい13日の朝だが、新盆の家は早く1日か7日までに設け、特に念入りにつくる。供物に関しては、盆中の14日にはソーメン、15日にはぼた餅などの変わリ物と、水の子といって生(なま)米と生ナスのさいの目に切った物を、蓮や桐の葉に盛って供ふ。16日になると、仏さまは牛にのり、馬に荷物を背負わせてお帰りになり、ナスとキュウリの牛馬が供へられる(七タ馬も同じこと)。棚の四角(すみ)に青杉や青竹を立てるのは、正月の年神の松飾りと同様、結界の意味があるものと考へられる。
                
盆踊り:お盆にお迎へしたご先祖や亡き人の霊を慰め、生者をたたへるとともに、豊年を祈るために踊るもの。先祖の霊をなぐさめるやうにと盆に踊リ、生きてゐる者もともどもに楽しむ。

               

              
「南無多寳如来
「南無妙色身如来
「南無甘露王如来
「南無廣博身如来
「南無離怖畏如来
                   
                      


                   
如来:施食会 せじきえ幡
如来旗とは施食会の法要時に五人の仏様の名前が書かれた五色の幡を飾ります。このお名前には鬼の心から離れられる願いが込められています。
南無多宝如来:なむたほうにょらい
これで充分ということを知らない貪り心=むさぼりこころ 即ち飢えたものを救う仏様。布施をせずむさぼりの業をなした為…飢餓世界で苦しんでいる者に食べ物を施し円満ならしめる如来様です。
南無妙色身如来:なむみょうしきしんにょらい
この貪りの心からくる醜い形相をした飢餓の姿を打ち破り、美しい妙なる色身の仏様として醜い餓鬼を救い優しい顔を得させる如来様です。
南無甘露王如来:なむかんろおうにょらい
甘露の水は一切の餓鬼にそそがれ、煩悩の猛火を消し去り心身を快楽な姿にしてくれる如来様です。
※甘露とは、生命=いのちをはぐくみ、魂を潤わせることです。
南無広博身如来:なむこうはくしんにょらい
餓鬼は、針のような咽喉(喉)をしていて食べたくても喉が狭くて食べられない餓鬼の喉を大きく広げて飲食の美味を得させようとする如来様です。
南無離怖畏如来:なむりふいにょらい
不浄による餓鬼の世界ではいつも苦痛と恐怖におびやかされておりその恐怖を取り除いてくれる慈悲をもった如来様です。
この五如来様が主体で供養をしますが、お寺ではこの他に東方、西方、南方、北方の四天王の幡と、施食会に対する経文の偈文を唱えた幡とをかかげてー全部で11幡ー餓鬼道に苦しんでいる餓鬼様を救う大法要を行います。
                        

               

 

    

『仏説盂蘭盆経(意訳)
  
このように聞こえてまいりました。
 釈尊祇園精舎におられた時のことです。
 目連は六神通を得ていましたので、父母を覚りに導き、乳哺(お育て)の恩に報いようと思いました。
 ところが神通力で観てみると、亡き母は餓鬼の中に生れ、飲まず食わずで皮と骨ばかりになっていました。
 目連は悲しみ、鉢に飯を盛り、亡き母のもとへそれを持って行きました。
 母は左手で鉢を持ち、右手で飯をすくいますが、口に入れる前にそれは炎と燃え、炭となり、食べる事ができません。
 目連は大いに嘆き悲しみ、泣き叫びながら釈尊のもとへ急ぎ帰り、詳細を述べました。

 釈尊は言われました、
「汝の母は罪深く、汝一人の力では奈何[いかん]ともし難い。
 また汝の親を思う心が天地を揺るがしたとしても、天神、地神、邪魔、外道道士、四天王神もまた奈何ともし難い。
 ただ仏道を修行している僧たちの威大な力によってのみ、解脱を得ることができる。
 私は今まさに汝がために、救済の法を説く。
 これにより一切の苦難を離れ、罪障を消滅させなさい」と。

 釈尊はなお目連に告げられた、
「十方の修行僧が、雨安居(雨季の殺生を避けるため洞窟等に修行にこもる)の明ける七月十五日に僧自恣(修行の自発的な反省)をする時、
七世(すべて)の父母、及び現在の父母、厄難に苦しむ者のために、百味の飲食と果物、器、香油、燭台、敷物、寝具を用意し、世の甘美を尽くして盆中にわけ、十方の高僧、多くの修行僧を供養しなさい。
 この自恣の日、一切の聖なる修行者や、様々な段階にある修行者が、
皆同じく一心にこの飯を受ければ、清浄戒を具えた聖なる修行の道となり、
その徳は海のように広く深い。
 彼ら自恣の僧に供養することがあれば、現在の父母、七世(すべて)の父母、六種の親属は、地獄、餓鬼、畜生の苦しみから逃れ、時に応じて解脱し、衣食に困ることはない。
 現に父母が存命なら、その父母の福楽は百年に及び、
既に父母亡き後なら、七世(すべて)の父母は天に生れ、自在に生まれ変わり、天の華の光に入り、無量の快楽を受ける」と。

 釈尊は十方の修行者に命じられた――
 皆まず施主(布施をした者)の家の幸せを願い、七世(すべて)の父母の幸せを願え。
 禅定に入ってから後に、施された食を受けなさい。
 初めて食を受ける時は、まず仏塔(墓)の前に座り、皆の呪願が終ってから食を受けなさい。

 その時、目連およびその場に居た大菩薩衆は、皆大いに歓喜し、目連の悲嘆する泣き声は釈然と消えた。
 この日この時にこそ、目連の母は、一劫(無限に長い時間)の餓鬼の苦しみから開放されたのである。

 その時目連は、また釈尊にこう申し上げた、
仏弟子を生んだ父母(私の父母)は、仏法僧三宝の功徳のお蔭を蒙[こうむ]ることができました。
 これも修行僧の威大なる力のたまものです。
 もし未来のすべての仏弟子でも、親に孝順を行う者は、
この盂蘭盆の教えで父母やすべての先祖を救済しようと願うでしょう。
 それで救われるのでしょうか」と。

 釈尊は言われた、
「よくぞ質問した。私がまさに説こうとしたことを汝は問うたのだ。
 皆の者よ、修行者はじめ国王から庶民にいたるすべての孝行者はみな、
父母やすべての先祖の為に、七月十五日の仏歓喜の日、
百味の飲食を十方の自恣の僧(90日の雨安居修行を終えた僧)に布施して、苦悩の解決を願えば、
現在の父母は百年病なく、一切苦悩の患いなく、
すべての先祖は餓鬼の苦しみを離れ、天に生れることができ、福楽は極まりない」と。

 釈尊は皆に言われた、
仏弟子で孝行者はみな、いつも父母を憶い、すべての先祖を供養しなさい。
 毎年七月十五日には、いつも孝行の思いから、親やすべての先祖を憶い、
盂蘭盆を行い、仏や僧に施し、育てられた恩に報いなさい。
 もし仏弟子であるならば、この教えは必ず保ちなさい」と。

 その時、目連比丘はじめ、すべての仏弟子釈尊の教えを聞いて歓喜し、実行した。