為什麼?

何故各社とも「40」と記すのか?

短時間の外出ばかりか、半日以上に及ぶ外出の際でも、部屋に音楽を流したままにしておくことが多い。
是は電脳と iTunes あればこその技ではあるが、自分が存在してゐない時でも自分の創出した空間には自分のお気に入りの音楽が充填されてゐるべきであるてう、極めて個人的且つ自己中心的且つ閉鎖的な指向であるのかもしれない。
我輩にとっては、主として自己が占有し長時間を過ごす重要な空間は徹底的にカスタマイズされなければならないてう強迫観念が昔から有って、調度も蔵書も雑器も装飾も荘厳も照明も音楽も、何もかもが本来は不可分な有機複合体の構成要素であり、自己の肉体も含めてそれらが一定の法則または独善的な美学に因って配置された空間こそ、自分が占有するに相応しいのだてう妙な考へが有った。改めて此のやうに書き表せば、実に奇妙で矛盾した自己完結方法なのだけれど、だからといって外に閉じ内に開く生活態度で日々を労してゐるわけでもない。
ところで改めて、自ら膨大な時間と資金を費やして蒐集した書籍や音源などの表紙背表紙をしげしげと眺めてゐると、あやしふこそものぐるほしけれども、少なくとも此の刹那には、我が地球上に全く同じ内容の有象無象を所有する人間様など居るまいとつくづく思へり。
さすれば、目に見ゑる其の人の人格(のやうなもの)は、肉体的な表情や体躯体型服装雰囲気ばかりならず、各種所有物の詳細と其の配置・構成こそ、個人の遺伝子構造に匹敵する要素であるのだなあなどと、わかったやうなわからんやうなことを脳裏に思ひ浮かべて勝手に納得してはゐるものの、一方で百足への対策を怠るわけにはいかないのだ。
  

  
  
今天は暴雨一過の晴天で、海岸沿ひの自転車道も乾いた快風。やうやう苦瓜の種も発芽し、庭の匂蕃茉莉もほぼ満開。此の花が咲き誇るてうことは、梅雨もまうすぐそこに来てゐる証拠。
木苺も大雨に洗はれ、なんとなく水っぽい感じになって仕舞ったが、まだまだ次々と熟す様子。矢張り我輩以外には誰も手を付ける者が居らぬやうなので、どんどん喰ふ。一方、自転車道に覆ひ被さるやうに枝を張ってゐた桜の木は大胆に剪定されて仕舞っており、楽しみにしてゐた実も手の届かぬ高所に・・・ 見てゐるだけでは悔しいので、えいやっと道路の欄干によじ登って枝に手を伸ばし、幾つかを収穫。ほろ苦く、そして甘く、初夏の風味。犬の散歩のおばさまが、口の周りを赤く染めた我輩を、原始人を見たかの如く避けて通る。得体の知れぬ人物は警戒するに越したことはなく、それは正しい行動だ。ちょっと草臥れた柴犬は、我輩には無関心らしい。
  
  

  
  

  
   
何故、誰も喰はぬ?