春雷を 集めて長閑 金盥

夢の跡地

昨天の慈雨はかなりの激しさで、庭の特殊雨量計(金盥)を見る限り50mmほど溜まってゐる。
このお陰で、地上の表層に降り積もってゐた花粉も黄砂も塵埃も何もかもが洗ひ流され、新緑の色をより一層鮮やかに輝やうてゐる。木々の新芽の多くが赤いのは、有害な紫外線と拮抗するためらしいが、反射された紫外線のためなのかその艶やかさは万緑の頃よりも強いのではないかと思はれる。
   
今天は午後からの出張に備へ、此の頃の我輩にしてはけっかう早くからごそごそと動いてゐたのだが、矢張り詩や物語や妄想同様、夜半にしたためた有象無象を陽光の下で再読反芻してみると、時には顔面から火が出て人体発火式即身仏になるほど恥ずかしくなる時や、丁寧に校正したはずの線画のあちこちに矛盾が発見されて仕舞ったりと、誠に夜の脳裏と昼間の大脳皮質とは機能も働きも別物かしらむと思ふほどの相違有り。
妄想を伴ふ分、深夜に於ける想像力の方がより本能的かとは思ふが、こと研究の領域となるといささか理性を優先させるべき場面の方が多く、此の昼夜の齟齬からさまざまな芸術や故事が発現するのだらうなあ、などとしみじみと我思ふ。
   
禅僧の修行の如き金盥での行水ばかりもなんだから、久しぶりに巨大銭湯にでも出掛けるかな。
   
   
   

睡蓮の新芽(若葉)も赤紫で、此の時期の水面の高さが茎の長さを決定するのだ。