此岸

   
   
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チベット特集:雪の下の炎は消えず1 産経新聞記者福島香織女史のブログ(3/10,12)より
    
■きょうは3月10日である。 50年前のこの日、ダライ・ラマ14世が人民解放軍に連行されるのではないかと恐れたチベット族が、法王の居住するラサ郊外の離宮ノルブリンカ前に結集、人民解放軍と衝突した。俗にいうチベット動乱のはじまりである。チベット族にとっては敬愛する法王を守るための民族蜂起の記念の日である。このチベット族の命がけの蜂起によって、ダライ・ラマ14世はインドに亡命することができた。きょうは50年前のこの日、このノルブリンカ前の抗議デモの場にいたひとりの僧侶、パルデン・ギャツォ師(写真↓ アップリンク提供)を紹介する。33年におよぶ投獄、飢餓、拷問に耐え抜いてなお、慈愛にみちたほほえみを浮かべることのできる不屈のチベット僧である。
    
   

   

■ちょうど先日、この不屈のチベット僧を取材したドキュメンタリー映画「雪の下の炎」の監督、楽真琴(ささ まこと)さん(36)とお会いした。NY在住の新進気鋭の女性ドキュメンタリスト。この作品は処女監督作とは思えない仕上がりで、昨年のトライベッカフィルム・フェスティバル(ニューヨーク)ではプレミアム上映された。日本では前回エントリーで紹介した「風の馬」とセットで上映される予定だ。

   

■彼女はいう。

「何者にも侵されない強靱な精神の美しさというものを撮りたかった」
   

■パルデン・ギャツォその人については、彼の自伝である「雪の下の炎」(ブッキング社刊)が昨年秋、約10年ぶりに復刻されたので、それを読んでもらえれば一番手っ取り早い。28歳から約33年にわたって無実の罪で投獄され続け、耳をふさぎたくなるような拷問に耐え、アムネスティ・インターナショナルの働きかけで釈放されたあとは、インド・ダラムサラに住みながらフリー・チベットをうったえ続ける活動を展開している。私は流血をともなうチベット独立よりも平和的な自治権の移譲を求めるダライ・ラマ14世の考えを支持しているが、なぜ、パルデン師はじめ多くのチベット族が独立にこだわり続けるのかは、彼の自伝と、そして楽さんのドキュメンタリー映画を見れば少しはわかるかもしれない。


   

■パルデン師は1933年、ラサから西に200キロ、シガツェから東に70キロのパナムという小さな村で、地主の息子として生まれた。生まれたとき、村はすっぽり虹で包まれたという。10歳で僧院に入り、寺院の中で修行と学問だけに没頭する平和な人生を送るはずだった。中国共産党の「チベット解放」が無ければ。


   
■運命の歯車が狂い始めたのは。中国共産党支配下の60年。数えで28歳のときである。師匠のインド人僧がインド独立運動の指導者たちと一緒に写っていた写真を所持していたことからインドのスパイの嫌疑を受け、師の告発を迫られて激しい拷問と尋問を受ける。ここで苦しみのあまり「殺せ!」と叫んだことで、反動分子のレッテルが貼られ、以後30年以上におよぶ政治囚の人生が始まる。

   

■師の告発をせずに拷問を耐えきった彼は、ラサの3月蜂起(1959年)の参加の罪で、7年の刑を言い渡される。あの時期、ラサにいて3月蜂起に参加していないチベット僧などほとんどいなかった。


   

■服役中は重労働がかせられた。手かせ足かせをはめられ、重い鋤をひかされ、動きがのろいと、牛馬のようムチ打たれる。人前では歌を歌えと命じられる。「社会主義はすばらしい!」と。ラサは飢饉と共産党軍の駐留による人口増で極度の食料不足に陥り、監獄内も飢餓地獄となった。激しい飢えに迫られ、ブーツの革から雑草まで手に入るものは何でも食べた。このままでは餓死すると思い、脱走を決行するも、失敗。8年の刑期延長が申し渡される。


   

■2年というつかの間の出所のあと1984年、ラサでチベット独立を求める張り紙を出したという罪で再び投獄される。チベット族の誇りとダライ・ラマへの忠誠を失うことのなかったパルデンはあらゆる拷問を経験する。殴られすぎで片方の耳がきこえない。電気ショック棒を口につっこまれる拷問で全ての歯を失った。体中にやけどのアトがのこる。しかしどんな拷問にも、パルデンは屈せず、当局は「改造不可」のレッテルが貼られる。ドキュメンタリー映画でもその拷問器具の数々が紹介されている。(写真↓)
   
   

   
   

■彼を救ったのは、イタリアのアムネスティ・インターナショナルだった。パルデンを「良心の囚人」と認定し中国当局に根気強く働き続けた結果、1992年に釈放された。彼はその後、インド・ダラムサラに亡命。夢だったダライ・ラマ14世に拝謁し、「あなたの経験を記録しておきなさい」と指示を受けた。獄中で次々と失った仲間への鎮魂を込めて書いたのが、自伝「雪の下の炎」なのである。

   

■この彼の自伝を、楽さんはNYで読んだ。大学卒業後、映画とアートを目指して飛び出したNYだが、言葉の壁と孤独と挫折感にさいなまれていた。へこたれていた自分を励ましたのが、パルデン・ギャツォの存在だったという。

   

■楽真琴「英語版の自伝は、表紙がパルデンの笑顔なんです。ものすごい優しい穏やかな笑顔。拷問されて、投獄されて33年耐えたあとに、こんな笑顔を浮かべる精神力を思うと、私のつらさなんてちっぽけなものだし、好きなことやるために苦労しているわけだし」

   

■楽さんは2003年、小さなプロダクションをつくり、テレビの下請けの仕事なども順調にこなすようになってくると、かつて自分を励ましてくれたパルデン師に会いたい、彼のドキュメンタリーを撮りたいという思いがつのる。そんな中、ダライ・ラマ14世によるカーラ・チャクラの法会の記録ビデオをとる仕事が舞い込んだ。その仕事を通じて友人となったチベット人楽家テチュン氏が、偶然、パルデン師と知り合いだったことから、漠然と思い描いてきたドキュメンタリー制作の話が実現化していく。

   

■楽真琴「初めてパルデン師とあったのは2005年のチベット正月(2月)のころ。ドキュメンタリー映画にでてくる、インドのダラムサラのまさにあの家で会いました。ピンポーンって呼び鈴押してもなかなか出てきてくれなくて、それでやっと降りてきてくれて見せてくれた笑顔が、昔読んだあの本の表紙にあったほほえみだったんです。感極まって涙と鼻水が止まらなかった…」

   

■なけなしの貯金をはたいて友人のカメラマン2人と一緒にインドに渡ったのだった。パルデン師のインタビューを撮影すると、それをもって企業や団体をまわりドキュメンタリー制作のための出資者をつのった。「カメラマンにもただ働きさせたし、レイバーオブラブ、多くの人の愛無くしてできなかった作品です」

(つづく)


   
   
チベット特集:雪の下の炎は消えず2 
    
■30年以上の投獄生活と数々の拷問にも絶望することなくほほえみ続けることができる精神の強靱さ。不屈のチベット僧・パルデン・ギャツォの生きように魂を揺さぶられたひとり、NY在住の女性ドキュメンタリー監督、楽真琴(ささ まこと)さんは、パルデンのドキュメンタリーを撮るべく、その活動、暮らしを追いはじめる。

   

■楽真琴「2006年2月のトリノ(イタリア)五輪で、パルデンが、チベットの自由を訴えるハンガーストライキを行うことをインターネットの情報で知って、すぐ飛んでいきました。本当は最初、(ハンガーストライキ活動の)主催者に怒ったんですよ。70過ぎの老齢でハンガーストライキなんてあまりにも無茶だ、そんなことさせるな、と」

   

■とりあえず現場にいき、ハンガーストライキのキャンプに2日泊まり込み撮影を開始する。


   

■楽真琴「夜中、真っ暗なテントの中で寝ているとパルデンの寝息がする。ああ、この寝息がいつとまるか分からないと思うと、もうたまらなくて。あまり密着しすぎると客観性が保てないとおもって、2日後にはサポーターの家に泊まらせてもらうことにしました。パルデンは死を覚悟していて、チベット・サポーターからの本などの差し入れにも、『私は死ににきたからこれは持って帰れない』と断っていました。それをみて、涙が止まらなくて。30年以上ずっと投獄されて、やっと自由になっても、こんな風に闘いつづける。こんなに胸に迫ってくることはないのに、なぜテレビや新聞は取材してくれないんだろう、 IOCは理解してくれないんだろうって怒りがわいてきた」
   


ハンガーストライキのときの記者会見、アップリンク提供)
  
    

■あまりに感情移入しすぎかと思われたが、それが予想以上の緊迫した映像となった。パルデンの30年あまりの時間は、釈放されて自由になったからといって取り戻せるような甘いものではなかった。彼が生きながらえた背景には数え切れない同胞の死がある。彼が生きるということは、その無数の無念の死を背負いつづけることでもあった。

   

ドキュメンタリー映画の中でパルデンは語る。−−監獄の中で、飢えと渇きに苦しむ同房の仲間が水をください、とパルデンに訴える。何も持たぬパルデンは、口の中で唾を絞り出し、それを苦しむ仲間に口移しに与えた。仲間はその聖なる水を飲み下しありがとうと繰り返すが、やがて死ぬ。その死のまぎわ、パルデンに、外に出たら、この惨状をみなに知らせる仕事をしてほしいと言いのこす。


   

■楽真琴「私は映画の中であえて、チベット独立、という思想をメッセージとして込めました。インディペンデンス(独立)かオートノミー自治)か、最初、外国人としてそんなこと言えるわけないと思っていました。私は部外者で、それはチベット人が最後に決めることで、私は遠慮があったんですよね」
   

■楽真琴「でも、チベットで触れた名前の言えない人たち、その人たちにふれて、より独立というものが言える人が言っていかなきゃだめだな状況にあるんだなと思って」「なぜなら、チベットは独立国家だったし、私のまわりのチベット人もみんな独立がほしいと思っている。(独立をあきらめ自治を求める)ダライ・ラマにはダライ・ラマの立場があるけど、外国人の立場で独立を言い続けることはすごく重要なことだから。だからドキュメンタリーのなかに独立っていうことを入れたかった。ただの仏教ドキュメンタリーにしたくはなかったんです」

   

ダライ・ラマ14世のインタビューは6回断られた。それでもしつこくオファーし続ける。「また、日本人のあの子、きているよ」とダラムサラで噂になった。最後に、インタビュー申請が承諾されたき、奇跡を感じた。


   

■編集に一年かけて、2008年、ドキュメンタリー映画は完成した。楽さんがこの映画をパルデンに最初に見せたのはその年のトライベッカ・フィルムフェスティバルのプレミアム上映会で。場内の明かりがおとされてから、こっそりと会場に入ってきてこの映画をみたパルデンは涙を流し続けていたという。


   

■楽真琴「映画を撮っている間、いつも責任を感じていた。彼のストーリー、ライフ、ジャスティス(正義)を撮らなきゃ、と。多くの人の命がかかっているのだと言い聞かせてきました。今でも責任が果たせたかどうか分からないんですけど、少なくとも、彼の目に涙を浮かべさせるだけのものをはできたと…」
   

■楽さんは人の安全がかかわるために、ここには書けない制作の秘話も話てくれた。観光客としてチベット自治区に入りカメラを回す中で、チベット族の心の奥にある、決して表に見せることのできない傷あとから今も血が流れていることを知る。1時間あまりのインタビュー中、楽さん自身が、まるでその痛みが自分のものであるかのように、涙をぽろぽろこぼしていた。

   

■この映画はチベット独立、フリーチベットを強く打ち出しているわりには、政治臭はあまり感じない。ただ、重い使命を背負って苛酷な人生に打ち勝ってきた人の神々しいまでの強さが印象にのこる。それを撮っているのが、泣き虫で感情過多で、まだ女の子の面影のある女性監督というのが驚きであると同時に、なぜか納得もできてしまう。

   

■この映画が発表されて以降、楽さんも多少の嫌がらせをうけているという。「サンフランシスコのフィルムフェスティバルでの上映会に対して中国大使館から『雪の下の炎』を上映リストからおとすようにを抗議を受けたこともありました。もちろん、その抗議は無視されましたけれど。あと、テンジンさんとか、ダライさんとかいう名前のウイルス入りファイル添付つきメールがきたり…」

   

■日本では4月から全国各地で上映会がはじまるという。それに会わせて、パルデン師を日本に招こうという動きもあるようだ。実現すれば嬉しいね。チベット問題に興味のある人もない人も、チベット独立を支持する人も反対の人も、永遠に続くかのような万年雪の下でも燃え続ける炎がこの世にあるのだと、知ってほしい。いかなる恐ろしい暴力であっても、目もくらむような富・経済力であっても、完璧にみえる情報操作・統制でも屈服させることのできぬ魂というものが存在する。その事実を知るだけで、世界が少しだけよい方向に変わる気がしないだろうか。

    

「不正には屈しないという私たちの意志は、たとえていうなら、決して消せない炎だ。思い返してみるに、自由への思いは雪の下でくすぶり続ける炎のようなものだった」
   
パルデン・ギャツォはかく語りき。