元宵節に聴く憤怒尊の咆哮

法灯は心裏を焦がす

ヴァレリー・アファナシエフの弾くモーツァルトの幻想曲群。
何故、ジャケットを兼ねた解説書の表紙が、場違ひなチベットの憤怒尊であるパルデン・ラモであるのかは、中を繙くまでわからなかったのだが、リーフレットの冒頭に中沢新一氏が「チベットモーツァルトを聴く」と題した短いエッセイを寄稿されており、デザインが非常に意図的であったことがわかる。
更には、幻想曲ニ短調KV397に対してアファナシエフに因って書かれた解説文(エッセイ)には、「チベット死者の書」の文言が引用されており、天国的なモーツァルトの曲に対し両氏が類似した幻視を抱いてゐたことがやっとわかる仕組みだ。
「ああ、ここに実在の不確かな経験が私に起こらうとしてゐる時、全てについての恐怖、畏怖、恐れの考へを悉く棄て去らう。どんな幻が現れやうとそれを私自身の意識の反映と認めてもよい・・・」
最後の部分で半ば唐突に、ニ長調に転調してそれまでとは一切の脈絡が無かったの如く展開する奇妙な曲調に関しては、「失楽園」であると喝破するところはいかにも詩人であり思想家でもあるアファナシエフらしいが、其のあとに付された詩(のやうなもの)はちょっと蛇足だったのではないだらうか。
   
I've got several brains in my head.
Some of them are closed. (I don't know What goes on inside them.) Others, open.
Wide-open, in point of fact.
   
続く幻想曲ハ短調KV396に対しては、アファナシエフは「私はこの幻想曲をその未完の形式のまま、モーツァルトが作品を放棄した地点で中断するといふやり方で録音することにしたのである。逆説的にも、歴史に忠実に従ったことによってこの幻想曲は、そのいわゆる限界をはるかに越えて引き延ばされ、数知れぬ実質を付与されたやうに思はれる。」と述べ、半ば冷酷に其の発言を実行してゐるのだ。
事実、演奏のテンポはもどかしいほど遅く、まどろっかしいのだが、これらも演奏者によって意図的且つ計算された結果であるとすれば致し方あるまい。
更に、これら幻想曲から派生したハ短調ソナタKV457にも、演奏者は回転する主題の波濤を地獄の季節に跋扈する憤怒尊の蠢きに例へ、其れを実行してゐるのである。こんな演奏者はグールド以外には見当たらないのも確かだが、ほぼ全ての演奏曲に対して書かれたエッセイで、しきりに「宿命」であることを強調しすぎることは認めざるを得ない。
「宿命」とは、楽譜に指定された表情記号やテンポ記号とは無関係なものだらうが、「行間」(♪間?)に横溢するエーテル的な情緒と暗黒物質の全てを、「宿命」であり致し方ないと諦観してもよいかだうかは、別次元の問題であらう。
   

   
今宵満月、月をも焦がす火焔宝珠。